歯医者の話

昨日の夕方、歯医者に行った。小学生のときに嵌めた銀歯が取れたのだ。「忙しい」という言い訳もできず、治療費が出せないわけでもなく、放っておくと「歯」以上に「大人の尊厳」が削られると思ったわたしは、ネットで近所の歯科を検索し、初診の予約をした。

雑居ビルの三階か四階でエレベーターを降り、わたしは初めてその歯科のロビーに足を踏みれた。そこは清潔で、適度に高級感のある空間だった。わたしは安心した。施設がむやみにゴージャスだった場合、患者にあざとく保険外診療を薦め、暴利をむさぼる金満歯医者かもしれない。逆に、施設がボロボロだったりした場合、この人工過密都市にあって患者が寄りつかない悪徳歯医者かもしれない。その点、ここはちょうどよかった。先にロビーにいた母娘らしき二人からも、気品と余裕を感じた。

受付に保険証と問診票を提出すると、診察室から十歳くらいの少年が出てきた。精も根も尽き果てたような顔をしている。もはやバイタリティが残っていないのか、次回の予約手続きでも「あとでお母さんが電話しゃっす〜」と投げやりだ。わたしは不安になった。バイタリティの塊であるはずの小学生男子から精根尽き果てさせるとは、ここの歯科は、それほど過酷な治療を患者に強いるのだろうか。彼に何もしてやることのできないわたしは、その日の彼の家の夕食が、歯に負担のかからない、彼の好物であることを祈るしかなかった(ハンバーグがベストであろう)。

歯科助手の「森さ〜ん」の声で、わたしは読んでいたオレンジページを閉じ、雑誌ラックに元通り戻し、颯爽と診察室に歩み入った。

わたしを担当するのは、三十代前半くらいの男性だった。手始めに歯の状態を目視でチェックし、レントゲンを撮影したあと、彼は「あの音」が出そうな器具を手にした。

「痛かったら言ってくださいね〜」やっぱりな。わたしは諦念の底に落とされた。やっぱりこうなるんだよ。真面目に勉強して、上京して、働いて、迷惑をかけずにまともに生きてきても、結局痛い思いをするんだよ。「あれ」が歯にぶつかり、悪路に嵌った四駆のエンジンみたいな音を立てた。がっつり痛かったものの、わたしは少し表情を歪めるにとどめ、特に抗議の声は上げなかった。すると彼が、信じられない言葉を口にした。

「ここ、我慢するところじゃないですよ〜」

わたしは、心の中で泣いた。

思えば、自分に我慢を強いてきた人生であった。「迷惑をかける」ことにひどく怯え、ストレスを溜め込んできた。幼少の頃から「男の子だから」「長男だから」と自分を律しすぎたり、責任感が強すぎて、社会人三年目で体調を崩したりした。彼の一言は、そんなわたしの人生をそっと肯定してくれたのだ。

絶対にそんな意図はないし、泣いたのは痛いからだし、「評価サイト」の乱立する世の中で、彼が患者サービスに徹しただけなのは頭ではわかっている。わかってはいるが、わたしはうれしかったのだ。

ビルの外に出ると、夜気で歯がしみた気がした。

次回の更新は11月1日木曜日、正午です。

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