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琵琶湖旅情編(4)「なにかいいことがあった地元の人」

〜前回までのまとめ〜
就職前の「卒業旅行」として、5月27日から29日まで琵琶湖周辺を旅することになったわたし。快晴に恵まれた旅の初日、わたしは琵琶湖を眺望できる高原リゾート「びわ湖バレイ」を楽しみ、翻訳家・村井理子さんとその愛犬の黒ラブ・ハリー君と遊び、村井さんのお宅で焼肉をご馳走になった。夜中にご一家と別れたあと、駅のホームに足を踏み入れたわたしの目に、蛍光灯の白い光がまぶしかった。

5月28日(火)

そういえばこれは一人旅だったのだ。

8時過ぎに目覚め、ホテルの部屋のカーテンを開けたとき、大津の街は鈍い色をしていた。旅費をケチってレイクビューの部屋を選ばなかった罰(ばち)があたったのか、すっきりしない雨が旅の二日目を彩っていた。雨が孤独を強調した。

シティビュー(レイクビューの対義語)の一室で、わたしは背後にあるはずの琵琶湖に思いを馳せていた。琵琶湖目線で考えれば、雨は恵みである。梅雨前の雨なんて、夕食前のおやつみたいなものかもしれない。わたしは気を取り直し、佐川美術館までの経路をグーグルマップで調べた。

堅田駅で湖西線を降り、江若交通バスに乗る。琵琶湖大橋を通過して(つまり琵琶湖を西から東に横断して)少しだけ街中を走ると、佐川美術館に着いた。バスの乗客はわたしと、40歳くらいの白人男性の二人である。入場ゲートでチケットを買い、本館を目指して前庭を抜ける。四角く区切られた、浅いプールのような人工池が前庭を覆っていた。雲と池が、細い雨を通じてつながっていた。この天気でよかったのかもしれない。

美術館は作品を見て楽しむのではなく、「作品のある空間」にいることを楽しむ場所なのだろう。佐川美術館を出て、そんな極めて文化的なことを考えながら街を歩いていると、即席スノッブの鼻をへし折るようなラブホテル群が眼前に現れた。毒々しい外壁の色と「地域最安値!!」の看板が、わたしを俗物に戻した。

ピエリ守山は、佐川美術館から歩いて15分ほどのところにある。数年前、ツイッター上で「廃墟モール」「店が閉まってる」「人が見当たらない」などと話題になっていたショッピングモールである。

しかしわたしの目的は、ピエリの廃墟っぷりを目の当たりにすることではない。風呂だ。風呂に入りたいのだ。今年の三月、この場所に「守山湯元水春」という、どことなく佐野元春に字面が似ている温泉がオープンして人気を博していたのだ。

「P 琵琶湖側」という頼もしい看板がある駐車場を抜けて、いくつもある入口の一つに着いた。きっと地元民に愛されているだろうフリーペーパーをラックからとり、店内に入ると、平日の昼にしてはそこそこに人がいた。まったく「廃墟」ではなかったが、わざと人のいない場所を狙って写真を撮り、Twitterにアップした。

「魚では負けへん」というポスターの貼ってあるスーパーで弁当を買い、フードコートで食べる。本日午後のテーマは「地元民の暮らし」だ。平日休みの滋賀県民のように、今日これからを楽しむのだ。

守山湯元水春(以下「水春」)は、ピエリ守山本館のすぐ隣に別館として建てられている。本館二階の入り口から、渡り廊下を通って水春に入る。履物ロッカーの鍵を預け、入場料を支払うと、電子チップの入ったリストバンドを渡された。瓶入りの牛乳など、館内の買い物はすべてこのチップを通じて行い、退場の際に一括で精算するのだ。リボ払いで苦しんだ経験のあるわたしのこめかみに、一筋の汗が流れた。

シャワーでこめかみの汗を流したあと、サウナでまた汗をかく。室内のテレビではトミーズ健がコメンテーターを務めるワイドショーが流れていて、関西にいる実感をおぼえた。「次にトミーズ健が面白いことを言うまで入っていよう」と自分でルールを定めると、調子がいいのかすぐに彼はヒットを飛ばし、わたしはサウナを出た。

露天風呂には結構な数の人がいた。いま自分が身につけているこの水が、風呂なのか汗なのか雨なのかわからないまま、わたしはかけ湯をして浴槽に入った。

全裸の男たちがぼーっとしながらレイクビューを楽しんでいる。たとえ気分が盛り上がって立ち上がっても心配はない。琵琶湖をのぞくとき、琵琶湖もまたこちらをのぞいているとはいえ、ちょうど「その位置」には擦りに擦った擦りガラスがあるからだ。

風呂を出て瓶入りのフルーツ牛乳を飲み、一息ついたあとに水春を出た。ピエリ発のシャトルバスに乗り込み、昨日のロープウェイおじさんと同じ渋みを感じるドライバーの運転で守山駅に向かった。

一旦ホテルで小休憩をとったあと(30を過ぎると「小休憩」の大切さがわかる)、食事をしようと外に出た。ホテルから歩いていけるところに、小粋なイタリアンがあることを検索で知ったのだった。また、近くにマックスバリュ(イオン系のスーパー)があり、そこにも行きたかったのだ。

どこで夕食をとるか、わたしは大いに迷っていた。個人経営っぽい小粋なイタリアンか、マックスバリュの前にあった関西系の回転寿司チェーン店か。ああ、そうだった。今日のテーマ「地元民の暮らし」を思い出したわたしは、「にぎり長次郎 膳所店」の暖簾をくぐった。

牛肉のサラダ(おいしい)やガリのハイボール(意外においしい)でスタートダッシュを切ったわたしは、順調に寿司を食べ進めていった。注文用のiPadがフル充電されていることでこの店を信用し、「なにかいいことがあった地元の人」のように遠慮なく寿司を注文していった。

お一人様にしてはなかなかの額をクレジットカードで払い、すぐ目の前にあるマックスバリュに向かった。わたしのお目当ては、地元ならではの食材である。「ならでは」すぎて観光客が注目しないもの、もしくは、「ならでは」すぎてその珍しさに地元民が気づいていないもの。そういうものを掘り出しに向かうのだ。

味噌コーナーが全体的に白い!こっちではまだカールが売ってる!こんなご飯の友見たことがない!といちいち興奮しながら、わたしは買い物を楽しんでいた。雑多に並ぶ商品のなかから、地元ならではのものとそうでないものを瞬時に見分ける特殊能力が育ってきていた。

ホテルに帰ったわたしは、昨夜村井さんに頂いた缶ビールで晩酌を楽しんでいた。つまみはスーパーで買ったお菓子と、どこかでもらってきた滋賀県の中古車情報誌である。食べものと読みもので地元民気分を味わっていたところで、いまが最後のチャンスであることに気づいた。漆黒に包まれる、夜の琵琶湖を眺めるチャンスである。

外に出たら、雨はほぼ上がっていた。歩けば歩くほど、黒い湖が徐々に近づいてくる。これが、昨日陽光を照り返していたのと同じ湖なのか。ハリー君がざぶざぶと泳いでいたのと同じ湖なのか。真っ黒い湖の向こう側で、ホテルらしきビル群だけが強い光を放っていた。黒に飲み込まれる前に、わたしは湖をあとにした。

次回の更新は6月29日土曜日です。
琵琶湖旅情編は、次が最終回です。

#琵琶湖旅情編


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