投票所の話

明日7月21日は第25回参議院議員通常選挙の投票日である、ということが言いたい。言いたいことを一行目に書いたので、あとは添え物である。唐揚げ弁当の唐揚げの下に敷かれている、コシという概念のないパスタみたいに楽しんでほしい。ところであのパスタは、どのタイミングで食べるのが正解なのだろう?筆者は弁当をご飯で締めたいタイプなので、そのワンステップ前にあれを一気に食べるのだが。

パスタの話はいい。タイミングの件はほっともっとにでも聞いてほしい。添え物として皆さんに言いたいのは、近所の小学校に投票しに行くのが好き、ということだ。

とかくドライな都会暮らしである。わたしを含め、一人暮らしの者はみな勤め先と家を往復するばかりで、その間の「地域」というコミュニティの概念がごっそり抜けている。だから同じマンションの住人を同じ帰り道の先に発見したとき、挨拶を避けるためにギリギリ怪しくないレベルまで歩くスピードを落とし、距離を置くのだ。ああ、普通に「こんにちは」と言える関係を築きたい!あわよくば「梅雨長いっすね」くらい言ってみたい!だが、いまさら遅いのだ。いまさら築きはじめても、「急に寄ってきたやつ」として不審がられるだけだ。わたしにとって「地域」は、近くて遠い存在なのだ。

そんな「地域」の権化とも呼べる存在が、小学校だ。「マンションの住人にこんにちはと言う」が初心者だとしたら、「保護者でもないのに地元小学校に一目置かれ、校内に出入りしてバザーなどを手伝う」は達人である。その「地域道」は長く険しいが、わたしのような若輩者でも年に数回だけ達人気分が味わえる。その機会はもちろん、選挙である。

さも当然のように校門を通過する。さも当然のように校庭を眺めて校舎に入り、廊下が靴で汚れないようブルーシートで覆われた廊下を進む。完璧だ。完璧な地域住民である。マンション前で言えなかった「こんにちは」も、いまなら堂々と言える。なぜならわたしはいま、誰がどう見ても地域住民だからである。

「地域住民」と赤字で書かれたたすきを心の中でかけながら、わたしは壁の掲示板を眺める。新聞社が発行する写真ニュース。近くで行われるイベントのチラシ。おそらく先生がワードアートで作った、手洗いうがいを奨励するプリント。そのすべてが、わたしに向けられていないのだ。

この片思いは寂しくもあるが、頼もしくもある。自分の知らないところでも世界は回っているからだ。そして、それを眺めることにすこしの罪悪感も覚える。わたしに掲示を見られることなんて、学校は想定していないからだ。もしやこれは覗きの快楽だろうか、と背筋が凍る。頭を振り払い、投票箱のある部屋に歩を進める。

硬筆で人の名前を紙に書き、それを箱に入れて校舎を出る。入れ替わりに、別の地域住民たちが校舎に入ってくる。それを横目で見ながら校庭を出れば、わたしのたすきは消滅する。

次回の更新は7月27日土曜日です。

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