大福レディーの話

わたしが陰で「大福レディー」と呼んでいる女性がいる。地味なシャツと地味なスカート、そして真っ黒なハイソックスに身を包んで大福をオフィスに届ける女性ではない。大福レディーは職業ではなく、刹那の光を慈しむ生き方のことである。

わたしが小学生だか中学生だか、あるいは高校生のときだった。時期の記憶は曖昧だが、時間ははっきり覚えている。夕刻だ。家に帰りたくなるほど寂しい色の夕刻だった。伊勢神宮からそう遠くない、なんでもない「でかいジャスコ」の駐車場の一角で、わたしは彼女に出会った。

わたしと母が夕食の買い物を終え、店から出て車に戻っているときだった。どれだけの田畑を潰したんだ、と暗い気持ちになるほどに広大な屋外駐車場のなかで、母が車を停める位置は毎回ほぼ同じで、だから迷わずに車を見つけることができる。

なにかのきっかけで、わたしは店側を振り返った。せっかちだったわたしは、母に大きく差を開けて先を歩いたのかもしれない。それで、もう着いたぞ、ロックを遠隔で解除してくれと、母に頼もうとしたのかもしれない。とにかく理由は忘れたが、そのときの光景はいまでもはっきりと覚えている。わたし側を前にして停まっている軽トラの助手席で、五十代くらいの女性が満面の笑みで大福を食べていたのだ。

あのときに覚えた感情はなんだったのか、いまでも形容に苦しむ。楽しそうだな、うれしそうだな、と思ったことは確かだ。子どもの目にもあれは、心の底からの笑顔だったと確信が持てる。ただ、それだけではなかったのだ。なにか猛烈な寂しさのようなものを、わたしはあの表情を見て覚えたはずなのだ。

おそらくあの女性は、大福が大好きなのだろう。それはいい。それは普通だ。ただ、助手席でぽつねんとしているということは、運転席には彼女の亭主がいたのだろう。二人で買い物をしていて、彼女だけ先に帰ってきたのかもしれない。だとすればあの笑顔には、「旦那から解放されている」という喜びが含まれているのかもしれない。彼女の人格を尊重せず「女」や「嫁」という役割でのみ捉え、二人で農業を営んでいるのに家事をすべて押し付けてくる旦那。その旦那から解放され、自分が自分でいられる唯一の場所がこの軽トラの助手席なのではないか。夕焼けがすぐに闇に呑まれるように、この時間もいつか終わり、タバコくさい旦那が帰ってくる。その前に一瞬でもいいから、自分の生を輝かせたい、好きなものを食べたいと思い、あのでかい大福を頬張っているのではないか。

当時のわたしが、ここまで具体的な想像をしたとは思えない。夕焼けのオレンジが彼女の顔に反射して、寂しさがコピペされたように見えただけかもしれない。彼女は別に苦しんでいなかったかもしれない。それでもわたしはあの光景が忘れられないし、あのときのわたしは、なかなかにやさしかったと思う。

次回の更新は11月23日(土曜日)です。


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