見出し画像

「今日はメンチないんですよ〜」の話

結論から言えば、在宅勤務は楽しくない。「会社に行かずに仕事ができる〜♪」よりも、「家にいるのに仕事が迫る〜♪」が勝つからだ。同じ音符で表しているが、前者は二長調、後者は嬰ハ単調あたりを想定していだければよい。そんな「月光」の同じ調性のなかでの数少ない楽しみは、ラジオを聴いて笑っても咎める者がいないことと、昼食を買いにデパ地下に行けることである。

23区内に住み、あらゆる資本主義的な余剰を有料で(基本こっち)、もしくは無料で(かなりレア)日々享受しているわたしである。もちろん、そのすべてに「都知事の悪政に耐えながら」というエクスキューズはつくものの、かなり恵まれた生活であることは間違いない。なにせ、ドア・トゥー・ドア、徒歩十五分で家からデパ地下に行けるのである。

会社のslackを「休憩中」に設定し、勤務開始前から予約炊きをセットしておいた炊飯器を横目に家を出る。彼は遅刻もしなければ文句も言わないし、買ってから一度も壊れていない。数週に一度は気圧に気圧されるわたしよりも、仕事人として遥かに優秀である。尚、「彼女」ではなく「彼」と表現したのはジェンダー・イコーリティーの観点からではなく、ただ単にわたしの、炊飯器は男性名詞であるという見解による。

路地裏と呼ぶべき通りを幾本も歩き、幅の割に歩行者にやさしい車道を横断したら、眼前にデパート群がそびえている。公道とデパートの敷地はシームレスにつながり、いつの間にかわたしを支配するものが「条例」から「お客様へのお願い」に変わっている。敬虔な消費者であるわたしはその願いを聞き入れ、卓上のアルコールスプレーのノズルを手の甲で押し、手のひらで受けて両手に揉み込む。

天国に下っていく、というのは我々の感覚にそぐわない。しかしその構造上デパ地下に行くには「下る」しかないから、矛盾を解消するためには我々が神の自覚を持つしかない。我々はなんらかの「園」に降り立ったなんらかの神のように、清潔な白衣に身を包んだ人間たちが作った、質的に言えば見栄え>=おいしさ、な食べ物を摘む花を選ぶように眺める。どれもが美しく、どれもが濡れている。サ行やカ行がよく似合う揚げたてのヒレカツですら、衣の内の湿潤が目に見えるようである。

デパ地下では現金を使え、というのが三十三年間(恥の多い)生涯を送ってきたわたしの暫定解である。クレジットカードを駆使しながらも、軽い破産もせずに(もしくは、人間の胃の容量を無視せずに)デパ地下で穏健な買い物ができる人を尊敬する。わたしには無理だ。ふと財布をのぞけば千二、三百円といったところであるから、もし使い切ってもなんとかなる。なくなればまた働けばいいし、もちろん人間は、おいしいものを食べたりするために働いているのだ。

中華料理の店で凝ったサラダを二種、100gずつ買ったあと、わたしはメインディッシュの選定に着手した。その日は生憎の雨であったが、「雨の日は揚げ物を食べてもいい」という内なる架空のかかりつけ医(内科と精神科を兼任)のアドバイスを思い出し、揚げものに向き合うことに決めた(そもそも揚げ物は、英語ではdeep fried foodという。このdeepが示すのがフライヤーの深さであれなんであれ、食う者の決意を感じてならない)。

揚げ物の店のウインドウをキラキラした目で眺めていると、ひとりの女性が背後から近づいてきた。とかく行列の作り方がわかりづらいデパ地下においても、はっきりと正解とわかる並び方だった。わたしは彼女のその聡明さに感服し、さらにはまだどの揚げ物を買うべきか決めかねていたので、「いや、ちがいますよ、買う意志があるというよりも、楽しく揚げ物を眺めてただけですよ」というバイブスを全身から醸した上で、彼女の後ろに並んだ。

雰囲気と時間帯と注文の内容から、彼女はおそらく専業主婦で、家族の夕食を揃えにここに来たことがわかる。常連らしき彼女はその買い物のなかで、ウインドウを見ることなくノールックでメンチカツを注文した。

「今日メンチないんですよ〜」
誠実そうな男性の店員がそう言った。心から残念がり、かつ申し訳なく思っている声と表情だった。こんなに真摯な「メンチないんですよ〜」は聞いたことがなかった。女性客はただ「あ、そう」と返すだけだっが、その間も彼はその、「真摯な謝罪」というコマンドを入力したかのような表情を崩さなかった。わたしは彼のことが好きになった。そしてその感情とは無関係に、エビカツとヒレカツを買った。

惣菜の熱で濡れたビニール袋(当時無料)を抱えて歩きながら、わたしは彼のことを考えた。彼が「プロ」だとは思いたくなかった。彼は本当に揚げ物が好きで、人の痛みがわかって、だからこそ「メンチカツを食べたいときにメンチカツを食べられない」つらさに共感したのだと思いたかった。路地には選挙ポスターがあった。玉石混交としか言えない顔ぶれをみながら、わたしは彼に似た、人の痛みがわかる候補者を探していた。

次回の更新は7月11日(土曜日)です。
明日7月5日(日曜日)は東京都知事選の投票日です。

励みになります。