カレーの話

今日はカレーの日らしいので、カレーの話をしたい。実にいい加減な書き出しであるが、「たかの友梨の誕生日なので、たかの友梨の話をしたい」よりは地に足が着いていると思う。たかのについては、「メッシュが素敵」以外の情報が手元にない。

世の中には、ものすごくカレーにこだわる人がいる。おいしいカレー屋を何軒も知り、店に行くためだけに遠出したりもする。あるいは、市販のルーを使わずに自分でスパイスを調合してカレーを作ったりもする。

すごい。本当にすごいと思う。そこまでなにかに熱中できることがうらやましい。わたしなら時間とお金を惜しんで、レトルトでそこそこのものを作って余った時間で昼寝するか、近場のそこそこの店で食べて余ったお金で古本を買うのに。

「カレー」の定義は広い。しゃばしゃばでもいいし、とろとろでもいい。なにを具にするかも自由自在だし、相棒だってライス、ナン、パン、うどんと多種多様だ。もしかすると、ドラマ『相棒』はカレーのメタファーなのかもしれない。カレーを体現する水谷豊に、うどんを体現する寺脇康文……。当代の反町隆史は、さしずめ「固めに炊いたライス」と言ったところだ。

こんなことのために「さしずめ」を辞書で引いたのが馬鹿らしくなってきたが、言いたいのは「カレーは多様だ」というただ一点である。そして、多様なものを「カレーだから」という理由で愛するのは、そこに「大喜利」を見出しているからだと思う。

カレーの定義は広いものの、最低限の必須要素はある。その必須要素がなんなのかは議論を呼ぶところだが、とりあえずはカレー粉・具・米の三点としよう。おそらくカレーマニアたちは、この制約から生まれるカレーの大喜利性に魅了されているのだと思う。「カレー粉・具・米の三つを使っておいしい食べ物を作りなさい」というお題と、忠実ながらも自由で多様な回答群。いわゆる「家のカレー」はそのベタさにおいて、さしずめ(また出てきた)圓楽の腹黒さを揶揄した回答だ。

さらにはラーメンも大喜利性に溢れているし、日本人の大喜利好きは論をまたない。そう考えれば、カレーとラーメンが国民食になったのは必然なのだ。

我ながら大げさな着地だと思う。しかし、「カレーの日にちなんでなにか書け」というお題に対しては、好楽ばりの「ドヤ」ができたと自負している。

次回の更新は1月23日水曜日、正午です。

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