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毎日憂鬱でしかたない話

憂鬱だ。毎日憂鬱でしかたない。8時にセットしたアラームを断ったあと10時まで寝て、だんだんと春めく陽光がカーテンから漏れ、デパ地下で奮発して買ったパン(ふたつ!)が台所で待っていようとも、なんだかもう、起きたところでどうなるんだ、という気になってしまう。

起きたところでどうなるんだ。ペーパーでコーヒーをいれ、パンを食べ、SNSをデトるために加入した東京新聞のiPadアプリで朝刊を読み、どの面を眺めても以前の社会ではなくて、コーヒーもパンもおいしいが、それがどうしたというんだ。

世の中がこんなことになっちまってよ、いやあ大変だだけども時間はあるなって小説でも書こうと思ったんだけどよ、なーんか書けないんだよな。やっぱ世の中がまともに機能してはじめてさあ、創作なんてものしようって気になるんだよな。

ということをビートたけしが語っていた。要旨だけを記憶しており、あとは「心のたけし」に語らせたので細部はたぶん大きく違う。みなそれぞれに「心のたけし」がいるはずだが、わたしのたけしはこう語った。

しかしいまは、「心のたけし」がいるだけマシだ。わたしの底はこんなものではなかったし、わたしの底は底ではなく、会社の古びた倉庫の二階、入って右の奥のほうにあった。

労災とは思わないが鬱になった。三年目の頃だ。やりたいことAのためにやりたくないことBをやりつづけた結果、向いてるじゃんと判断されてB方向に出世した。とりあえずは出社する。だがオフィスの活気で耳が痛く、わたしはよく倉庫に避難した。

製造業と娯楽産業の境界のような業種だった。子どもたちが誕生日にねだって、もしくはサンタクロースやお年玉を経由して手に入れるはずのものが、カートン単位でごろごろと転がっていた。それら商品だけでなく、販売促進のためのパンフレットやサンプルも含めた紙とプラスチックの塊が、ひなびた倉庫を三階まで埋めつくしていた。

どうやって見つけたのかわからない。だがわたしは二階の右のどん詰まりに、ラックに囲まれたコの字の空間を見つけた。はまりたい、と足が動いた。しゃがみたい、と腰が動いた。もう生産をとっくに終え、誰にも遊ばれることのない製品がうず高く積まれているのを眺めていると、無数のパッケージの商品名やキャラクターと、合うはずのない目が合った。わたしはそこに三十分ほどいる。三十分ならいてもいい。

あそこが自分の底ならば、まだまだ落ちられると安心する。三食たべているし、八時間寝ているし、献血に行けるほどには健康であるから、コの字に囲まれて座る必要もない。

だがふと懐かしくなり、いっそ外観だけでも見に行こうかと気の迷いも生じそうになるが、その倉庫はわたしの退職直前に壊されていまは別のビルになっている。

次回の更新は2月6日(土曜日)です。

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