失われた友情の話

自分は薄情な人間だと思っている。

まず、人の誕生日に興味がない。その人が生まれたことは祝うべきだし、全ての命を尊く思うが、日付も「一年」も人間が勝手に決めたものだし、その人が生まれてから地球が太陽の周りを何周したかなんて、ほんとにめちゃくちゃどうでもいいと思っている。さらに厳密に言えば、公転周期は1年ではなく、1年と約1/4日である。

それに、人の仕事を手伝わない。その分の給料をもらっていないからだ。大盛りが別料金なのと同じだ。ある人が過剰な量の仕事を抱えているなら、それは他人の無償の協力によってではなく、管理職が業務を割り振ったり、給与に差をつけるなどして解決するべきだと思っている。ただの一従業員が、管理職の怠慢をカバーしてやる意味がわからない。

そんなわたしの「薄情」史(腹上死に音が似ている)を更新するような出来事が、先日起こった。十年以上の付き合いの友人を、facebook上でブロックしたのだ。

何度も遊びに出かけ、何度も酒を酌み交わした。お互いの家に泊まったことだってあるし、事情があって行けなかったものの、彼の結婚式にも招待された。そんな大切な友人であった彼をブロックした理由は、「共通の友人の結婚報告に対して記入したコメントが、異常につまらなかった」という一点だ。

我ながらひどいと思っている。もし彼がこのことに気づいたなら、深く深く傷つくだろうと思っている。それでもわたしは、自分の行動を悔やんではいない。長年の友情関係をぶち壊すほどに、そのコメントはつまらなかったのだ。

何を面白いと思うか、それは人間関係においてたいへんに重要な事柄である。そのことは同じ部屋で暮らすもの同士にとって、「どのくらいの気温が心地いいと思うか」が重要なのに似ている。つまり彼は、冷房を点けたのだ。わたしはオイルヒーターをMAXにしたかったのに、彼は28℃以下の強風に設定したのだ。

『スローターハウス5』という小説がある。カート・ヴォネガットが1969年に発表したその作品の中に、「トラルファマドール星人」という異星人が登場する。彼らがわたしたち地球人と大きく異なる点は、時間というものの捉え方である。

ある人が死んだとする。わたしたちはその人が死んだと思い、悲しむ。しかし彼らは悲しまない。その人は「今は死んでいる」だけで、「過去には生きている」からだ。過去も現在も未来も、彼らは同時に見渡すことができる。だから彼らにとって、その人は「生きている」のだ。

わたしと彼の友情も、そのようなものだと思っている。一緒に居酒屋に行き、カラオケに行き、船に乗ったのは嘘ではない。ただ、二度と戻らないだけだ。いや、正確に言えば戻る可能性もあるが、その可能性が有る/無いからといって、過去の光が明るく/暗くなったりはしない。

生きていれば変わる。心地よい気温も変わる。それは仕方のないことだし、悲しいことではないはずだ。わたしもいつか、誰かに置き去りにされるだろう。ただ、それだけのことだ。

次回の更新は12月21日(土曜日)です。

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