鬱と同じくらいつらい話

ついついBOSSのレモンティーを買ってしまう、という書き出しがいいのか。それとも、端的に言ってめちゃくちゃつらい、という書き出しがいいのか。それでもつづく日常を書くのも、かといってつらいことを「つらい」と書くのも、どちらも正しい行為とは思えない。要するに、なにを書いていいかわからない。だからもちろん、過去に起こったおもしろいエピソードに適度な編集を混ぜて書くなんて、しばらくできそうにない。

いまと同じくらいつらい時期が、わたしの人生にはあった。あのときも東京地方の天気に関係なく、空はいつでも曇っていた。鬱で休職していたときだ。

朝起きる気がしなかった。起きたってしかたがないと思うのだ。起きたところで無意味な一日を送るだけなのだから、このまま昼まで寝続けたいのだ。それでも踏ん張ってベッドから飛び出し、近くの大型書店で買って積んである何冊もの本に向き合っているときは、すこしだけ自分が前に進んでいるような気がして救われたものだ。

最近の毎日は、まるであのときのようだ。もちろん仕事はしているし、死にたいとは思わないし、薬なしで8時間も眠れているのだが、それでも日々を覆う空気はあのときにそっくりである。だからいまつらい思いをしている人は、そのことに引け目を感じないでほしい。鬱と同じくらいつらいのだ。やる気など起こるわけがない。

ただ、あのときと明確に違うことが一つある。逃げ場がないことだ。つらいときはそのつらみを因数分解せよ、そして一つずつ具体的に解決せよ、というのがわたしの生きる指針であるが、最近の毎日をどう因数分解しても、ウイルスという巨大な素数にぶち当たってしまう。もしかするとそれは素数ではないのかもしれないが、わたしには因数が見えない。

あのときはそうではなかった。へたっているのはわたしだけで、世界は常に正常だった。街に出れば本屋があり、服屋があり、飯屋があった。テレビでは日本中や世界中をマスクなしでタレントが飛び交っていた。だからこそわたしは、いつかこの世界に戻ってやるぞ、それまで待ってろよと思いながら、パジャマ姿で自炊をしたり読書をしたりして希死念慮に抗うことができたのだ。

ただ、逃げ場がないということは、この苦しみを誰とでも共有できるということでもある。いまやわたしたちはアパートの隣人とも、アマゾンの奥地に住む狩猟民とも、(個別の事情はあれど)この苦しみを共有できる。どうせ逃げられないなら、その分旨味を味わってやれ。それもまた、わたしの生きる指針である。誰かzoomで合コンでも開いてほしい。

次回の更新は5月2日(土曜日)です。

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