穴に落ちる (1)

 先輩芸人が死んだ。かねてからその不健康は有名であり、最近では車椅子で舞台に上がったり、直前に出番をキャンセルしたりすることもあった。元々は漫才コンビとしてデビューし、五年前に相方がなくなってからはピン芸人として漫談を披露していた。七十歳を超えても頭の回転はまったく衰えることがなく、目をつむって声だけを聞けば、三十年前の全盛期となんら変わりなかった。
 四方田はその死を、マネージャーの鶴田からのラインで知った。バラエティ番組の収録のあと、共演者である同世代のお笑い芸人たちと六本木で飲んでいた帰りのタクシーで、四方田のiPhoneが震えたのだった。宵っ張りの同業者からの飲みの誘いだろうと思って画面を見ると、通知画面にはこう表示されていた。
「蛙亭ぴょん丸師匠が亡くなりました」
 四方田はその先輩芸人が好きだった。ぴょん丸は四方田に会う度に、「少なくてごめんな。とんかつでも食べな」と言ってお小遣いをくれた。ぴょん丸はいつも「笑顔がいちばん」と味のある毛筆風フォントで書かれたポチ袋に千円札一枚を入れて渡してくれた。「師匠、ありがとうございます!」と後輩らしく受け取り、数枚たまったところでピンサロに行くのが四方田の楽しみだったが、後ろめたさもあった。その証拠に、ピンサロ嬢が快楽に悶えている一瞬の表情が、「そんなの言いっこなし!」と定番ギャグを叫ぶときのぴょん丸に見えてしまうことが何度もあった。
四方田とぴょん丸には、直接の師弟関係はなかった。ただ同じ劇場に出ていて、同じ千葉県の出身というだけだった。そんな薄い関係で自分にやさしくしてくれるぴょん丸に対して、あるとき四方田は思い切った質問をした。
「昔は相方のガマ吉師匠がネタを考えてましたけど、いまはどうしてるんですか」
そう聞かれたぴょん丸は捨てられた子犬のような目で「まあまあ、それはね」と口ごもった。目には見えないほど微細な、しかし不可逆的なヒビが二人の関係に走った。それ以来四方田は、ぴょん丸への挨拶を手短に済ませるようになった。
 舞台上を元気に駆け回るぴょん丸を思い出しながら、四方田はライン通話で鶴田に死因を尋ねた。
「それはちょっとわからないんですけど、とりあえず明日土葬するみたいなんで行ってください」
「え、土葬?」
「なんか師匠、山奥の村の生まれらしくて、そういうしきたりみたいです」
「まじかよ、いまどき土葬なんてあるんだ」
「だから明日の収録、キャンセルしときましたんで」
「え、代わり誰なの?」
「ネイティブさんです」
「ま、そうなるよね」
 同期の芸人「川上ネイティブ」に仕事が取られる形となったが、四方田にはそれ以上に気になることがあった。喪服のことだ。結婚式で着るやつと同じでいいのか、ネクタイは何色なのか、すぐにまとめサイトで確認したあと、四方田は自宅近くでタクシーを降り、コンビニに入って黒いネクタイと黒い靴下を買った。
 翌朝四方田は、千葉県のある駅に着いた。ここから参列者用のチャーターバスが出るのだ。
たとえ全盛期は過ぎても、蛙亭ぴょん丸は大御所芸人だ。さぞや大きいバスなんだろう、業界の大物もたくさん来るのだろうと四方田は期待していたが、目の前に停まっていたのは普通の中型バスだった。
乗り込んで車内を見回しても、地味な中高年が二十人ほどいるだけだった。きっと身内だけで静かに執り行いたいのだろう。四方田はそう思うことにした。そういえばぴょん丸の訃報は、まだ公には伝えられていなかった。
 車内はほぼ満席だったが、まるで四方田のために空けられているかのような二つつづきの空席が、車内の中ほど、運転席の逆側にあった。四方田がその窓側に座ると、「すいませーん」という若い女の声が響き、最後の乗客がやってきた。
 女は四方田の隣、通路側の席に座った。モデルでタレントの碇エマだった。
「あ、四方田さん。おはようございまーす」
 碇がこの業界特有の挨拶をしてきた。
「あ、おはようございます。うそ、エマりんも来てたんだ」
 碇は二十代前半の、タレントとしてはまだまだ若手に入る部類である。女子高生向けファッション誌の読者モデルとしてデビューし、その雑誌で人気を博したあと、この数年はバラエティ番組にも進出している。週刊誌などで水着グラビアを披露することもあり、男性ファンも多かった。
「そうなんですよ。前に浅草の街ブラロケで一緒になって、それ以来よくしてもらってて」
 四方田は一瞬、碇はぴょん丸の恋人なのではないかと疑ったが、すぐに撤回した。
ぴょん丸は昨年、芸人になる前から連れ添っていた妻を亡くしていた。四方田はその葬儀に出席し、芸人ではない、喪主としての彼の姿を目にしていたのだ。舞台衣装の金ピカのスーツとは違う、井戸の底のように暗い黒の喪服が目に痛かった。「妻は売れない芸人である私を愛し、支えてくれました」と涙ながらに語るその姿は、蛙亭ぴょん丸というより、本名の葛城太一郎を強く印象づけた。ぴょん丸は葬儀を通じて、一言もギャグを言わなかった。そんな愛妻家のぴょん丸が、死別してすぐに若い女と付き合うとは思えなかった。
「ぴょん丸師匠、会うといっつもお小遣いくれたんですよ」
「ああ、そういう人だよね」
「いやわたし、こんなにもらっていいのかなってずっと思ってましたもん」
「いや、いいんじゃない」
「師匠いっつも、札出しながら、樋口一葉のこと樋口いっぱ、いっぱって間違えてて」
「この女には五千円なのかよ」とあきれながら、四方田は「へー」と生返事をした。
 バスは山道を進んでいく。大きな湖にさしかかったあたりで、なにかのスイッチが作動したように一人の老婆が立ち上がった。
「きょ、今日の葬儀は中止じゃー!」
 車内が騒然とした。周囲になだめられながら、白髪の老婆はなおも叫びつづける。
「恐ろしい災いが起こる!今日の葬儀は行ってはならんのじゃ!」
 なんかやばいっすねなどと碇と語り合っていると、バスが路肩に停車した。老婆の親類らしき数人の中高年が、彼女を座席から引きずりおろそうとしている。
「やめろー!やめるんじゃー!」と絶叫する老婆は、抵抗しながらも着実にドアに近づいていく。ようやく老婆が外に放り出され、バスのドアが閉められると、老婆が突然四方田の眼前の窓に近づいてきた。そして両手で激しく窓を叩き、四方田の目をまっすぐ見ながら「気をつけろー!」と叫んだ。
 老婆の手が窓についたまま、バスは発進した。バックミラー越しに見る運転手の目は、なにかしらのプロのそれだった。あまりのことに呆然とした四方田は、遠のいていく老婆の姿を眺めるしかなかった。
 なぜか急に落ち着きを取り戻した車内で、四方田と碇だけが声を出していた。
「え、あれなんなんすか」
 恐れのあまり、生来のギャルっぷりが漏れてきた碇が問いかけた。
「いや、なんだろね。マジでビビったよ」
 四方田は老婆の、狂気をはらみながらも、どこか安心したような目を思い出していた。なにかが一段落して、ほっとしたときのような目だった。
「え、なんかちょっと怖くなってきたんすけど、大丈夫すかね」
「いやあ大丈夫っしょ。根拠はないけど」
「ないんかーい」
自然にタメ口に移行する碇を見て、こいつは売れるなと四方田は思った。
バスが目的地に着いた。てっきり葬儀場かぴょん丸の実家に着くのだと思っていたが、目の前には漠とした空き地が広がっていた。赤土に覆われた、草野球でもできそうな場所だった。
「え、こんなところで葬式やんの?」
「土葬とか言ってましたよね?ここに埋めるんすか?」
 四方田と碇が驚きを表現しているあいだも、他の乗客は一言も発さず、ただ座って前を見つめていた。
 バスのドアが開くと、運転手がマイクを使ってアナウンスをした。
「四方田さんと碇さんは、最後にお降りください」
 その声を皮切りに、他の乗客が一斉に立ち上がり、よく訓練された軍隊のように無駄のない動きでバスを降りていった。四方田と碇は不審そうな表情を交わしながら、バスを降りた。
 ぴょん丸の一人息子、葛城一郎を名乗る男性が二人を出迎えた。歳は三十代前半で、特にぴょん丸に似ているわけではない。地味であること、人の記憶に残らないことに全身全霊を注いだような外見だった。
 三人で挨拶を交わしたあと、息子は「こちらです」と、二人を案内した。どうやら空き地に隣接する山に入るらしい。気づけば他の乗客が、すでに山につづく坂道を進んでいた。
香典は用意していたものの、必要ではないらしかった。香典袋に「笑顔がいちばん」と書いたらウケるかとも思ったが、それを笑ってくれるぴょん丸が死んでしまったのでやめておいた。四方田は坂道を進みながら、こんなときにもウケようとしてしまう自分を恥じた。
一行は、山中のすこし開けたところに到着した。ところどころ禿げてはいるが、全体的に草が生い茂っていて湿気っぽかった。四方田は、広場の中央に大きな穴があることに気づいた。棺桶の形に合わせて掘られたのか、その穴は長方形だった。底は浅く、棺桶の高さの二倍ほどしかない。「こんなに浅いんですね」と四方田が一郎に感想を述べると、一郎はなぜか慌てて「あ、そ、そっすね。そういう信仰で」と答えた。
いよいよ「葬儀」がはじまった。とはいえ、これがふつうの葬祭で言うなににあたるのか、もともと儀礼に疎い四方田には見当もつかなかった。通夜と告別式の違いも、四方田にはよくわかっていなかった。
親族らしき数人の男たちが、喪服姿で棺桶を抱えて近づいてくる。その集団を、神職らしき渋い老人が先導している。四方田は老人の白衣が、左前になっていることに気づいた。きっと霊界だの死者の再生だの、変わった意味があるのだろうと思うことにした。
老人が参列者の輪の真ん中で立ち止まり、男たちに目配せをした。年季の入ったいくつもの「せーのっ」が雑にユニゾンされながら、棺桶が穴のそばの地面に下ろされた。ぴょん丸はもはや、「せーのっ」で下ろされる物体となっていた。男たちが「せーのっ」を発したのは、ぴょん丸への敬意ではなく、むしろその遺体の質量が原因だった。荷物のように扱われるぴょん丸を見て、四方田は引っ越し業者でのアルバイト経験を思い出していた。二人がかりで冷蔵庫を運び、キッチンに置くときの「せーのっ」とまったく同じトーンだった。
棺桶が置かれ、男たちが去ると、一郎が老人の隣に立った。
「みなさん、本日はご多忙のなかお集まりいただき、誠にありがとうございます」
 喪主としての一郎は堂々としていた。なんども練習を重ねたかのようだった。
「親父は生前、にぎやかなことが好きな人でした。だから今日も、お世話になったみなさんがこーんなに集まってくれて、親父も喜んでいると思います」
 一郎は「こーんなに」の部分で参列者を見回すという行動に出た。四方田は一郎のことがすこし嫌いになった。
「もしかして親父も楽しくなっちゃって、生き返ったりしちゃうかもしれませんね」
 いままでの緊張感が弛緩され、会場が笑いに包まれた。参列者の誰かが、ぴょん丸の大ヒットギャグである「そんなの言いっこなし!」を言い放ち、また爆笑が起こった。
 一郎がそれに対して反応し、その後できちんと喪主としての挨拶をして空気を引き締めた。隣にいた碇が言った。
「まじ生き返るとかないっすよね?わたし土葬ってはじめてで」
「おれもだよ。っていうか違法じゃなかったっけ?土葬」
 四方田はそう言って、iPhoneで「土葬 日本 違法」と調べようとしたが、一郎に預けてしまっていた。「厳かな式ですので」という理由で、半ば強制的にそうさせられたのだ。スマホを持っていないか碇に尋ねると、
「あっ、あ、わたし、いま電池切れで」と碇は答えた。
「それでは神主さん、よろしくお願いします」
 一郎が小学生のような単純なセリフを言うと、神主らしき老人は祝詞らしきものを詠みはじめた。
此岸と彼岸のあいだに流れる川を、祝詞が渡していた。四方田、碇をふくむ参列者全員が、「とりあえず目瞑って頭下げときゃ失礼に当たらないだろ」的な態度でそうしている。
しばらくすると祝詞が終わったようだが、「かしこみ」と「まーおー」くらいしか四方田には聞き取れなかった。なにを「かしこむ」のか到底理解が及ばなかったが、四方田には即席の信仰心が芽生えていた。自然に囲まれた空間で、人が皆目をつむり頭を下げ、その中心で老人が「かしこみ」だの「まーおー」だの言っていれば、とりあえずの「宗教」は成立する。二十歳そこそこの碇も、同じようにインスタントな「厳粛」に浸っているのだろうか。気になった四方田が彼女に向くと、彼女も四方田を見た。
「かしこみって『カチコミ』っぽくないすか?」
四方田は思わずむせた。笑ってしまったのだ。まがりなりにも笑いのプロである自分が、所詮は見た目と愛嬌だけで売れているタレント風情に笑わされてしまったのだ。
しかし、碇の発言は完璧だった。人の葬式という、絶対に笑ってはいけない空間。そのなかでもとくに神聖であるはずの祝詞のなかに、北関東のヤンキーしか使わないだろう「カチコミ」に近い音が含まれている。それを端的に表現したのだ。しかも碇はどう見ても元ヤンだから、説得力もある。そんな、あまりに完璧な発言をした碇に嫉妬を覚えた四方田は、
「いや、不謹慎だろ」と言って茶を濁した。
 祝詞が終わり、厳粛なムードが漂う中で一郎が言った。
「それではみなさん、最後に親父の顔を見てやってください」
 自然と行列が形成され、碇と四方田がその最後になった。四方田ははじめて碇を後ろから見た。葬式用にまとめた真っ茶色の髪の毛のなかで、うなじの産毛だけが黒かった。
 列が進むなかで四方田は、あることについて不安になっていた。絶対に笑ってはいけないこの雰囲気のなかで、舞台上で「そんなの言いっこなし!」と叫ぶ姿や、普段は出ないのに色気を出して出演した民放のバラエティー番組で熱々のおでんを口にふくまされ「熱い!熱い!」とリアクションをする姿を思い出してしまったら、おれはどうなるのだろうか。爆笑してしまう気もするし、それとは逆に泣いてしまう気もする。爆笑すればこの場を壊すし、泣いてしまえば芸人失格である気がした。
 そもそも四方田は、この「顔だけでも見てやってよ」が苦手だった。顔だけ見てどうしろというのだ。「まだ生きてるみたいですね」以外になにを言えというのだ。お忙しいあなたには全身を見る時間がないでしょうから、でしたらせめて顔だけでも見てくださいみたいな謎の「譲歩」を見せられている気がして、四方田はこの習慣が心底苦手だった。
 列が進む。笑ってはいけない、笑ってはいけないと自分に言い聞かせるたびに「フリ」が強固になっていく。やばい。もう笑ってしまいそうだ。悲しめ。悲しめ。人を笑わせることで飯を食ってきた男の、非業の死を悲しめ。
 四方田の前にいたグループが、顔だけでも見てやるのを終えた。なんとなくだが、碇と四方田がペアで顔を見る空気だ。四方田は意を決して歩を進めた。
 近づくと、真新しい棺桶からひのきの匂いがした。木々や土に囲まれたこの場所でもはっきりと感じ取れるほどの、濃厚な匂いだった。四方田はその匂いを頼りに、先程得た即席の信仰心を呼び覚まし、心の背筋を伸ばした。前方では、顔を見てやるためだけに作られた棺桶の蓋が開いている。
「どうしたんすか四方田さん?」
 前を歩いていた碇が立ち止まって振り返り、そう言った。碇の産毛をじっと見ていた四方田は、突然にまじまじと顔を見ることになった。きれいだ、と思った。
「いや、なんでもないよ」
「そうすか、なんか、泣いてるのかと思って」
 碇が再び前を向いて進む。四方田はなるべく碇の方を見るようにしながら、棺桶の右側、碇の隣に立った。意を決し、目を落とした。
 ぴょん丸はまるで、生きているようだった。これまでいろんな人の葬式に出てその死体の顔を見てきたが、こんなに生きていたのははじめてだった。どんな生き方をすればこんな穏やかな、しかもまだ生きているような表情で死ぬことができるのか。ぴょん丸の人生に思いを馳せ、爆笑すること泣くことも忘れてしまった四方田のそばに、いつの間にか一郎が来て言った。
「せっかくなんで、なにか声をかけてやってください」
「え、そんな……」四方田は戸惑った。遠慮ではなく、単になにを言うべきかわからなかったのだ。
「いや、そうですね……」四方田がぐずぐずしていると、碇が急かした。
「お世話になりましたとか、ありがとうございましたとか、シンプルなのでいいんじゃないですか」
「じゃあ、そうだな。ぴょん丸師匠、ほんとにお世話になりました!」
 そのときだった。ぴょん丸の両目と口が全開になった。
「そんなの言いっこなし〜!」
 ぴょん丸が虚空を見ながらそう叫んだ瞬間、四方田は腰を抜かした。倒れた四方田が地面に両手をつき、なにが起こったか信じられないでいると、ぴょん丸がすっくと立ち上がり、首を四方田に向けた。
「ヨモちゃんたら、そんなの言いっこなし〜!」

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第57回文藝賞応募作の全文です。(1)から(22)に分かれています。

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