靴紐の妖精の話

買って二年くらいになるお気に入りのスニーカーの、左の紐がよくほどける。右の紐はまったくほどけない。同じ方法で、同じ強さで、同じ「頼むぜ」という思いを込めて結んでいるのに、左だけがほどける。足の形が左右で違うのだろう。そんな暫定解で自分を納得させていたが、ある日異変が起こった。

街中を歩いていて、ふと気づくと左の紐がほどけていた。よくあることだ。わたしは歩道の端に移動して、歩行者に注意しながら紐を結びなおした。気を取り直して出発。「またいつかほどけるんだろうな」という軽い諦念を胸に、わたしは目的地に向かった。

それからしばらくして、足元に異変を感じた。見ると、右の紐がほどけている。わたしの記憶の限り、いままで右の紐がほどけたことはない。全幅の信頼を置いていた「右」に裏切られ(政治の話ではない)、わたしは驚きを覚えたが、淡々と紐を結びなおした。

それからしばらくして、また足元に異変を感じた。見ると、また右の紐がほどけている。おかしい。変だ。さすがに変だ。一度なら偶然と思えても、二度つづくとそう思えない。偶然でないなら必然なのだが、どう「必然」なのかがわからない。急に成長期に突入して、足の形が変わったとは思えない。靴紐の結び方は小学生の頃から変わっていない。どうにも納得できないので、妖精のせいにすることにした。

おそらく、わたしの左足には妖精がいたのだろう。ボールペンくらいの身長の妖精が、左足に履いた靴の上にちょこんと座っていたのだろう。妖精業の詳細な職務は知らないが、おそらく待機時間が長いのだろう。暇を持て余した彼(もしくは彼女)は、「バイトひまー」とツイートする感覚でわたしの靴紐をほどくのだろう。わたしがいくら「頼むぜ」の思いを込めても、妖精の退屈には勝てないのだろう。

ではなぜ、妖精は右足に移ったのだろうか。きっと靴の形が、妖精の尻にフィットしすぎていたのだ。

たとえば家のソファでも、誰しもその中での定位置があるはずだ。テレビが見やすい、スマホの充電器から近いなどの理由でその定位置に長く居座っていると、ソファが自分の身体に合いすぎて、「反発」が恋しくなってくるだろう。そのときあなたは、少しだけ位置をずらす。左端から中央へ、あるいは中央から右端へ、居心地のいいソファから決して離れず、最低限尻を浮かせて新たな地域へ進出する。妖精の移動もたぶん、そんな類のものだったのだろう。

それからしばらくして、また足元に異変を感じた。見ると、左の紐がほどけている。どうやら、妖精が定位置に戻ったようだ。

次回の更新は4月12日金曜日です。

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