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トヨクモの左側の女性の話

もしあなたが検索窓に「トヨクモ」と入力して、その予測変換に「左 女性」と表示されたのなら、それはわたしのせいだと思ってほしい。わたしはそれほどまでに、トヨクモ左レディーに夢中だ。

出会いはいつのことだったか。はっきりとは覚えていない。いやむしろ、出会いをはっきり覚えているのは、そこから思い出を紡げなかった場合が多い。そういう意味でもわたしとレディーは「本物」だ。わたしは山手線の動画広告で彼女に出会った。彼女の名前はまだ知らないので、ここでは「レディー」で統一しておく。

レディーは画面の左端にいた。背もたれのでかいオフィスチェアに座って、振り付けを完璧にこなしていた。画面には他に五人の男女が映っていたが、彼女だけが本気だった。彼女だけが本気で、この振り付けに取り組んでいたのだ。

配置から明確にわかるように、彼女はこのCMの主役ではない。主役は明らかに中央の女性だ。「主役」はおそらく、新進気鋭の若手女優なのだろう。広告代理店の緻密なマーケティングのもとで指名された、未来の人気者なのだろう。だからその「主役」がホームメイトの桐谷美玲ほどのやる気しか見せていないのは、至極当然のことだ。

一方レディーはそうではない。おそらく彼女は指名ではなく、オーディションを通じてこの役を獲得している。いくら精緻に検索しても(中学のときパソコン室のペアレンタルロックを外していろいろなコンテンツを見ていたほどのITスキルを持つわたしが検索しても)、彼女の名前は出てこないのがその証拠だ。代わりにわかったのは、レディーに注目しているのはわたしだけではない、という事実だ。その誰もがみな、彼女の名前を求めていた。知りたくないことすら知れてしまうこの時代に、ここまで情報を切望される女性が他にいるだろうか。いや、いないのだ。

では、なにが「我々」を惹きつけるのか。

一つは、その漏れまくるがんばりである。前述したように、画面に登場するなかで彼女だけが本気で体を動かしている。やりすぎと言ってもいい。おそらくレディーは腕を上下に伸ばす運動(ラジオ体操第一)のとき、さっきまで肩に置かれていた両手をその直後、まるでコマの足りないパラパラ漫画のように瞬時に天空に伸ばしている。それがレディーだ。CMの収録後、レディーは筋肉痛になったのではないか。そのせいで打ち上げに参加できなかったとしたら、共演者もさぞさみしがったことだろう。

もう一つは、がんばりの奥にある物語である。彼女ががんばったのは、がんばる以外に方法がなかったからだ。がんばることでしか、「その他」である彼女は仕事を勝ち取れなかったのだ。だから、主役がホームメイトの桐谷美玲くらいのやる気を出している一方で、脇役である彼女はがむしゃらに踊った。わたしには彼女が、漫画「ピンポン」の登場人物・佐久間学に見える。彼もまた身近な天才(=スター=主役)に完敗を喫すが、作者の松本大洋は彼を、単なる主役の装飾としては描かない。彼は生きた人間で、ただ卓球が不得意だっただけだ。佐久間の人生がつづくように、レディーの人生はつづく。

レディーの人生がつづくなら、なんらかのきっかけでわたしに出会い、またなんらかの流れで交際し結婚、ということもありえる。だがわたしは、それを望まない。レディーを傷つけるだけだからだ。

「結局踊ってる私が好きなんでしょ!?」

レディーの目は真っ赤に腫れていた。結婚して三年、あらゆる出来事が二周ほどした。がんばらなくていい相手と過ごすことが結婚なら、わたしたちのそれは最初から矛盾を抱えていた。

「ねぇ、わたしが幸せになればなるほど、信ちゃんつまんなそうにしてるよね」
「そんなことないよ」
「うそ」
「そんなことないけど、でも」
「でもなに?」
「あの頃が一番楽しかったなと思う」

わたしはとどめを刺した。それが誠意だと思った。いつかごまかせなくなるときが来るなら、早く来るほうがいいと思った。

「わかった。もういい」

彼女はそう言って、近くにあったオフィスチェアに座った。リモートワーク用にわたしが買ったものだ。

「カンタ〜ン、トヨクモ」

しばらくしすると彼女は、ため息の音量でそう言った。

「カンタ〜ン、トヨクモ」

やめてよ、というわたしの言葉が宙に漂う。

「カンタ〜ン、トヨクモ」

彼女は誰の目も合わない目で、遠くを見ていた。

「カンタ〜ン、トヨクモ」

彼女はいつまでもその一行を発しつづけた。

ということになるのがいやだから、わたしはレディーに会いたくないのだ。

次回の更新は9月26日(土曜日)です。



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