帰りの電車の話

いま、謎の倦怠感に襲われている。

好天がつづき、早く起きて早く寝て、給付金が振り込まれ、好きな店が次々と再開しはじめているにも関わらず、なんとなーくやる気が出ずにだらだらと過ごしている。もしかすると、旅行の疲れが帰りの電車で噴出するような、いままで「渦中」にあったからごまかせてきたものが、すこし冷静になったせいでその姿を顕在化させたような、そういう状態なのかもしれない。しかし、もしいまが帰りの新幹線だとしても、到着時刻は誰にもわからない。それにきっと、着いたとしても街は変わり果てている。

考えれば考えるほど憂鬱になるので、いっそ別のことを考えたい。今日はnote用に書き散らしたメモのなかから、記事に昇華することができなかったものを取り上げて成仏させてやりたい。

レバニラの出前にスプーン
出前をとることが増えた。もちろん「非接触」形式だ。チャイムが鳴り、ドアを開けると、給湯の室外機の上に食べ物が置かれている。配達員と会話を交わすことは許されず、遠ざかる背中を見つめることしかできない。レバニラにサラダも玉子スープもついているという豪華な昼食のに、なにかしらの「収容」をされている気分になる。ビニール袋を開けると、食べ物の他に割り箸とスプーンが入っていた。スプーン。それはおそらく、レバニラか玉子スープ用のものだ。最悪、なくても困らない。だからこれは、この店の親切の結晶なのだ。そう考えると、この海に捨てたら即世界中から非難されそうな安いスプーンに、人間の体温を感じられた。

甘夏じじい
スーパーに行くと、店頭で甘夏がフィーチャーされていた。甘夏。甘い果物であることはわかるが、味がいまいち想像できない。どうやって食べるのかも想像できない。ただ世の中には甘夏好きというものがいて、いま段ボールを必死であさっている老紳士もその一人だ。この時期に!素手で!売り物の甘夏をまさぐっている!という義憤だけでなく、わたしは不思議な感覚を覚えた。こんなに必死なのはおかしい。上等な甘夏がないと死ぬとしか思えない。そうだ、これは甘夏じじいに違いない。そういう妖怪がいるに違いない。そう考えるとわたしの安い義憤は消滅した。昔の人はこうやって怒りを抑えていたのだ。買い物を追えて外に出ると、UberEATS中の俺はあくまで仕事中なんだから遊んでいるだけのお前らみたいな歩行者より優先的に歩道をチャリで疾走する権利があるんだぞ青年に轢かれかけた。妖怪なのに働いていて気の毒だった。

フン担
犬の散歩現場によく遭遇する。だから当然、犬がフンをする現場にもよく遭遇する。後者のほうが「現場」という日本語によく合うのは、そこに「思わず動物性が出ちゃってる」という事故感があるからだろう。ある日、中年夫婦と思われる男女二人が中型犬を散歩させており、当然のように「現場」が発生した。すると男性がおもむろにビニール袋を取り出し、それを手にかぶせてフンをつかみ、慣れた手つきでくるくると袋を閉じた。妙だったのは、女性がその一切を無視していたことである。手伝いもしないし、「ありがとう」の言葉もないし、「了解」的な首肯すらない。いったい、どういう関係性なのだろうか。一度よかれと思って男性がフン処理の任に志願したら、いつのまにか手当もなしに担当が固定されたのだろうか。そんな中小企業みたいな事態が夫婦間に起こるのだろうか。ただ、ビニール越しに犬の体温を感じていたその男性は、妖怪にはできない曖昧な表情をしていた。生きている人間の曖昧さだった。

次回の更新は6月6日(土曜日)です。

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