ご本人登場の話

東京は四谷に、「バンビ」という洋食屋がある。ハンバーグやエビフライなどの料理を、ご飯とサラダとスープ付きで、おおよそ千円以下の価格で提供する、まさに「洋食屋」ど真ん中のような店である。

わたしは平日の15時すぎにその店に行くことが多い。昼食には遅く夕食には早い、見事に中途半端な時間帯である。だからわたし以外の客は少ない。太陽はもはや真南になく、路地裏にあって照明を点けようとしないその店のなかは、不思議と心が落ち着くような暗さに満ちている。

店内は、広い調理スペースをカウンター席がぐるりと囲むような配置になっている。わたしはいつも、券売機のすぐ左の席に座る。見るからに常連の多そうな、調理場のタイルに「年月」が染み込んでいるこの店の奥の席に居座るのは、なかなか勇気が要ることなのだ。

ある日いつものように、おかずが三種盛られたプレートの食券を買った。当然ながらそのプレートには、揚げ物も含まれている。「脳は元気だけど、中性脂肪がやばいよ」と神経内科医に宣告されるようなわたしであるが、日の出ているうちは遠慮なく揚げ物を食べる。心配はない。ツナサラダとウィルキンソンという、モデルみたいな夕飯にして帳尻を合わせればいいのだ。

いつもの席に座り、三種盛りの到着を待つ。白いコック服に身を包んだ店主らしき中年男性と、黒いコック服に身を包んだアルバイトらしき若い男性が忙しそうに調理に励んでいる。彼らはほとんど言葉を交わさない。「スペシャルです!」などの必要最低限の情報以外は、業務上の指示すらも口に出さない。淡々と、無言で、無駄のない動きで調理を進めている。「スペシャルです!」と言ったアルバイトのことを、店主はたいそう信頼しているようだ。むしろ「うぃ」に近いほどの店主のおざなりな「はい」が、それを裏付けている。

相変わらずいい雰囲気の店だな。感心していたわたしは、あることに気づいた。調理台のすぐ左にドアがあるのだ。客が使うドアではないから、通用口なのだろう。店主やアルバイトがそこから出勤してくるのだろう。だから別段珍しいものではないのだが、どうにもほっておけないのはその位置である。なんというか、「ご本人登場」にぴったりの位置なのだ。

明鏡国語辞典で「ご本人登場」の語義を調べようと思ったが、「古本(こほん)」の次が「子煩悩」だったので諦めた。しかたない。わたしになりに「ご本人登場」を定義するならば、「主にものまね番組で、ものまね芸がなされているその背後から、そのものまねのモデルになっている人物がこっそりと登場すること」である。付け加えるならば、「とくにコロッケによる岩崎宏美など、ものまね芸の誇張の度合いが高ければ高いほど演出効果が高い」としたい。この店の厨房のドアは、ご本人が登場してくるのにぴったりの位置にあったのだ。

では、この洋食屋における「ご本人」とは誰なのだろうか。いや、ドアから登場するのがご本人ならば、この店主とアルバイトは何者なのだろうか。本当の店主とアルバイトのものまねをしているのだろうか。「スペシャルです!」も「うぃ」も誇張された表現なのだろうか。急速に現実感が失われてきた。わたしがいま食べているハンバーグは本当にハンバーグなのだろうか。コップは、水は、机は、他の客は、この街は実在するのだろうか。

いや、もうやめよう。疲れているだけだ。ハンバーグがおいしいのは事実だから、それに集中して気を落ち着けよう。噛み、味わい、飲む。それだけに集中しよう。そんな風に頭を切り替えていると、突然そのときはやってきた。

ドアのほうから物音がした。ドアの長辺に隙間が生まれ、そこから光が漏れてくる。厨房の床に光が直線を描き、その直線がすこしずつ変形する。ドアがゆっくりと開かれていく。もうすぐ「ご本人」が登場する。何が本当かが、もうすぐわかる。

次回の更新は、10月12日土曜日です。





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