おかわりナンの話

花は散り、ナンは冷める。今日言いたいことはそれだけである。もしこの文章が国語のテストに出され、15字以内で文意を答えさせる問題が出題されたら、迷うことなくそう解答してほしい。つまりわたしはナンを通じて、幸福の本質を追求したいのである。

一旦冷静になるために、「ナン」を辞書で引いてみる。手元の明鏡国語辞典(第二版)にはこう記載されている。

インド・西アジアなどの平らなパン。発酵させたパン種を楕円形にのばし、タンドールと呼ばれる壺状の窯に貼り付けて焼いたもの。

「貼り付ける」という工程のある料理も珍しいが、もちろんCtrl+Vではなく、職人が手作業で「ペシーン!」とやっているのだ。さすが明鏡、調理の様子がありありと想像できるほどの見事な記述であるが、重要なのはそこではない。店舗によってはおかわりが無料であること。死ぬほど熱いがすぐ冷めること。幸福の本質が顕在化しているのは、この二点なのだ。

食べ放題で元を取ろうというのは、この世で最も貧乏くさい発想のひとつである。第一、頭のいい大人が材料費やら人件費やらいろんなものを計算しながら営んでいる店で、客が元を取れるわけがない。おそらく店側の人間は満腹でも空腹でもないときに、コーヒーかウィルキンソンでも飲みながらエクセルで精緻な計算をしている。空腹の客が、空腹で冷静さを失っている客が適う相手ではないのだ。テーブルにMacbookを持ち込んで、エクセルで計算しながら食べ進めれば五分(ごぶ)に持ち込める可能性があるが、そんな食事は楽しくないだろう。

食べ放題は、「食べ放題である」という状態を楽しむ娯楽だ。数千円の料金は別にして、毒見役を雇う必要も、権謀術数に頭を悩ませる必要もなくノーリスクで王様気分を味わえる。王様が原価を気にするだろうか。王様が、カレーライスは腹にたまるから後半にとっておこうなどと考えるだろうか。否。我々はただ現実を忘れて、優雅な時間を楽しめばいいのだ。食べ放題で元を取ろうと考えるのは、テーマパークに行って「中の人」に思いを馳せるようなものだ。

さて、おかわりナンである。スティーリー・ダンに響きが似ているということにはここでは触れないが、おかわりナンにも、食べ放題にも、いずれ終わりが来る。お腹がいっぱいになるのだ。空腹時にはあんなに輝いていた料理たちが、満腹時にはすっかり色あせている。それどころか、今後の胃もたれを考えれば「敵」と言っても差し支えない。それに、たとえ満腹にならなくてても、必ず制限時間がやってくる。

おかわりナンを注文して数分、「おかわりナンでーす」と店員がバスケットに入れてくれたとき、おかわりナンは焼けるように熱かった。貼り付けて(Ctrl+V)焼いていた(Enter)のだから当然ではあるが、スマホばかり触っていて野生を忘れたわたしの指には、焼き立てのナンは試練のように熱い。しかし、熱さとうまさが比例するという事実の前にひれ伏すしかないわたしは、半泣きになりながらナンをちぎるのだ。熱い。うまい。熱い。そうだ、ちぎるスピードを極限まで高めれば耐えられるだろうか。いや熱い。でもうまい。Paypayでからあげクンを買い食いするときには気づけないことだが、「食」は闘いだ。食うか食われるか、「ナンに食われる」という状況は想像しづらくとも、やっぱり「食」は闘いなのだ。しかしそんな猛者のナンも、少しずつ熱を奪われてゆく。

いつまでも一緒にいられればいいのに。いつまでもこの花が咲き続ければいいのに。いつまでもナンがアツアツならいいのに。どの願いも叶わない。しかし、叶わないのは悲しいことではない。幸福は瞬間にしか宿らない。すぐ終わるものにしか人間は幸福を感じられないのだ。人は別れる。花は散る。ナンは冷める。食べ放題は終わる。それでいい。というか、そういうふうにしか動かないのである。

そもそも、幸福を「状態」と捉えることに罠がある。幸福は「瞬間」であり「動作」だ。だからわたしは冷めるのを知りながら、満腹になるのを知りながら、諦めの境地でおかわりナンを注文するのだ。

次回の更新は6月1日土曜日です。

次週から数回に渡って、「琵琶湖旅情編」をお送りします。



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