見出し画像

明日と今日の話

明日、3月11日。
13年前に東日本大震災が発生しました。
福島県ではオンライン献花の受付を行っているので、お気持ちのある方はぜひ(匿名&無料で出来ます)。

黙祷の案内が出ている企業さんもあるかもしれないですね。
もちろん強制ではないし、強制であってはいけないと思いますが、その後の各地の災害を思うと、節目に思い返して備えられるところは備える意識を持ち直すことが大切だなと感じます。
自分や大切な人たちの命にかかわる問題ですのでね。

昨年福島に行った話は以下のnoteにて。

そして今日。3月10日。
東京大空襲から79年です。
原爆の被害が大きすぎて忘れられがちですが、東京の市街地への空襲を筆頭に、戦時下には各地で米軍による無差別爆撃がありました。
これらのことは原爆と並んでアメリカの戦争犯罪とされることがありますね。誰も責任取ってませけど。勝てば官軍。やったもの勝ち。

別に、こういうことを挙げて「戦争反対」とか「戦争放棄」などと主張するつもりはありません。
大前提として、戦争なんてしない方がいいに決まってる。
けれども、どれほどの努力を重ねても起きてしまうことはあるのです。
そうなったときに反対だの放棄だの主張したとして、何になります?
良くて隷従。悪ければ死です。
そんなことをすれば世界中から非難されるからやるわけがない、なんて言う声もありますね。
大人しく布団かぶって震えていれば嵐は通り過ぎるとでも?そうはいかない、という実例がいくらでもあるのに?
非難されたとして、そうなるころには自分が、あるいは自分の大切な人が死んでるかもしれません。

争いたくはないけれど、自分を守るために、大切な人のために、最低限抗うことはしたい。抗う力は持ちたい。
その力を持つこと、行動を起こすことは、生存するための権利だと思うのです。
何があっても戦争反対・戦争放棄と考えるのは個人の自由で、その人が無抵抗であることを選択するならそれもまた自由ではありますが、その人ではない私個人の生きる権利を踏みにじらないでくれ、と。
それだけのことなのに、何故か「戦争反対・戦争放棄に反対する人は戦争をしたがっている」とか言われたりするんですよね。謎。

戦争のことを知る人がどんどんいなくなるように、東日本大震災をはじめとした数々の災害についても、時間の経過とともに当事者・経験者が減っていきます。
それは仕方ないけれど、記憶・記録を繋いで同じ間違いを犯すことのないように努力していきたいものだなぁと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?