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あの日見た青いセロハンの名前を僕達はまだ知らない。

ふとした瞬間、コンビニでエロ本を買いたくなるときがある。
コンビニのエロ本は、青いセロハンのせいで中身を見ることはできない。
そしてそもそもの話、コンビニのエロ本の主役は本ではなく、附属のDVDだ。

だから青いセロハンが必死で守っているものは、本当のところ実体なんて無いのだ。

しかも(恐らくは何かしらの規制の関係で)コンビニのエロ本のDVDは、総じて内容がソフトだ。「あぁ買ってよかった」と思えるようなものなんか絶対に無いって、もう何年も前から皆が気付いている。

それでも人は、たまにコンビニで青いセロハンのついたエロ本を買う。

だいたい今はネットに無料映像がいくらでもあるし、レンタルビデオ店にいけばDVDも80円でレンタルできるような時代だ。青いセロハンなんかが隠すことができるものは、本当にもう何もないのだ。

それでも人は、たまにコンビニで青いセロハンのついたエロ本を買う。

僕達は一体いつから、ネット上のレコメンドやキュレーションなんてものに踊らされるようになってしまったんだろうか。
自分の行動履歴から自動的に推測される好みの何かを消費し続けることは、ある一定の満足感を生むのかもしれない。
しかし、その小さな自分の世界は、どこまでいっても既知の世界だ。

だから、青いセロハンは、あるいは「メディア」と呼ばれる何かの最後の記号なのかもしれない。

○○特集などと銘打たれたコンビニのエロ本の表紙に並ぶ項目は、およそ7割の安定と3割の不安定が混在する。
その3割こそが、新しい気付きの可能性なのだ。とんでもなく無駄な気付きもあれば、新しい何かを感じさせる気付きもある。

だから人は、たまにコンビニで青いセロハンのついたエロ本を買う。

今そこにある気付き。それをどう判断するかの自由が、個人に与えられた権利なのだ。
そしてエロ本は、根本的に他人と評価を共有できるものではない。自分の目で判断する他ない。だからこそ否定も肯定も、自分が楽しめたかどうかという、本質的でシンプルなものになるのだ。
それこそがキュレーションというものの本質であり、メディアと個人との対等な関係性というものになるのではないだろうか。

だから人は、たまにコンビニで青いセロハンのついたエロ本を買う。

コンビニのエロ本の表紙にメディアを重ねて語ったこの時間には、ハッキリ言って何の意味も無い。
それでも、コンビニのエロ本の表紙以上にわくわくできるメディアをいま他に知らないこともまた、一つの真実なのだ。

青いセロハンは、今日もどこかで何かを必死に守っている。


あの日見た青いセロハンの名前を僕達はまだ知らない。

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