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【ネタバレしかない】『シン・ゴジラ』が最高と言いたかっただけなのに、結局中学生みたいな感想を1万字近く書いてみた。

2日前、話題の『シン・ゴジラ』を何の予備知識も無しに見たのですが、個人的にはすさまじく面白い作品でした。やばい。最高。

ただ、ネットはすでにゴジラ礼賛者と批判者のカウンターパンチの応酬だらけで、そろそろゴジラについて何か話す奴はダサいみたいな兆候すら見受けられるようになってきました。

『ポケモンGO』と同じ流れであり、その流れの早さに自分は戸惑うことしかできません。

伏せられていた公式情報などもどんどん明かされ、有識者のじっくり練られた記事なんかもリリースされてきているようで、もう何の関係もない個人が勝手に適当な解釈を書けるのは、今週末で最後かもしれません。

というわけで、金曜夜だけど飲みに行く友達もいないので、だらだらと『シン・ゴジラ』の感想を書いていきたいと思います。

以下、ネタばれしか存在しないので、観賞の可能性が少しでも存在する方は一切読まないでください。

また、この手の解釈が人によって分かれる作品に関しては、(それこそエヴァの頃から)いわゆる個人解釈記事はなるべく読まないようにしている人間なので、既存の何らかの記事と主張や内容が一部重複するかもしれません。そのときは申し訳ないです。


『シン・ゴジラ』における欠落と、それがもたらすリアリティとについて。

『シン・ゴジラ』の魅力は、個人的には圧倒的な「リアリティ」にあると思っています。怪獣が出てきて大暴れする話なのに、最終的には「明日も頑張るぞ!」的な気持ちになれる不思議な映画です。

それは映画のキャッチコピーにある『現実<ニッポン> 対 虚構<ゴジラ>』に表されているように、虚構に現実が打ち勝つことを丁寧に描いたストーリー展開となっているからではないでしょうか。

言い換えれば、打ち勝つべき虚構はゴジラのみで、他はすべて限りなく現実のニッポンを描いているのです。

では、なぜ『シン・ゴジラ』はそれほどのリアリティを生み出せたのか。

その理由は、兵器や役職といった知識部分のディティールはもちろんですが、娯楽映画が本来描くべきさまざまな要素を「欠落」させたことにあったのではないかと考えます。そんなわけで、個人的に感じた6つの欠落を以下に紹介していきます。


1.「人間ドラマ」の欠落

『シン・ゴジラ』には驚くほど人間ドラマがありません。

たとえば長谷川博己が演じる主人公の矢口が「昔両親をゴジラに殺された」という過去を持っていれば、もっとストレートな映画になっていたでしょう。

彼の行動すべてに「そりゃゴジラに復讐したいんだから、頑張るよね」という説明が付けられるため、安心して楽しめるからです。

しかし、矢口はあくまで「ゴジラという予期せぬ大災害に対応する若手政治家」でしかなく、彼は相手が地震でも火事でもアメリカでも、きっと同じような感情で対応したと考えられます。

パニック映画やモンスター映画は、主人公かそれに準ずるポジションの人物が対象に「憎しみ」を持っている場合が多く、それが全体のモチベーション(あるいは解決の重要なキー)となります。

しかし現実にいま謎の怪獣が日本にあらわれたとしたら、政治家や自衛隊のような問題の対処に追われる側の人は何を感じるでしょうか。

当然「ぶっ殺してやる!」ではなく「緊急で解決すべき課題ができてしまった」という仕事的な感情だと思います。

これは別に冷たいとか感情が無いとかそういう類の話ではありません。時間の経過とともに事象や被害者への感情は変化していくものですが、まさに今災害と直面中という段階において真っ先に考えるのは、怪獣という課題の解決策ではないでしょうか。

そもそも作品全体の目線は、矢口ではなく日本という「国家」に設定されています。国家には当然ながら感情はなく、その代弁者も存在しません。個の意識の集合を規則によって統制したものが組織であり、その規模が最大限に拡大した事象の1つが国家なのです。

登場人物の中で比較的矢口の感情がわかりやすいのは、単純に観客との接触時間が長いためであり、もし矢口の感情にもっとフォーカスすれば、そういう意味での人間ドラマは増す(家族や恋人を守る! とかそういうやつ)でしょう。しかしそれは単に視点が矢口と同化することを意味しており、国家視点のドラマを楽しむことはできなくなります。

だからこそ、矢口をはじめとする登場人物たちのセリフが総じて「薄く」「嘘臭く」聞こえつつも、「日本がんばれ」という感情が生まれやすくなるのではないでしょうか。


2.「改革」の欠落

この作品を官僚や国家といった「旧態依然とした巨大な組織と慣習」に対する皮肉と見た人は多いと思いますが、ゴジラ登場という未曾有の大災害に見舞われながら、『シン・ゴジラ』ではそれらが何も改革されません。

“「承認」や「根回し」といったプロセスなんかは全部すっ飛ばして、とにかくゴジラ倒すぞ!”

とは最後までならず、組織は組織のままなのです。

然しながら、総理大臣交代時にある登場人物が発した「この国のリーダーは誰でも一緒」という皮肉は、ある意味で正しく組織という存在の利点を言い表しています。

たとえば「あの人がいなくなったらウチはおしまいだ」と言われるような人はどの会社にも存在しますが、ある程度の規模の会社であれば、実際は誰が辞めても会社は問題なく回ります。つまり、傑出した何かを必要としないことが、組織であることの良さなのです。

また、組織表現の一環として、一向に進まない閣僚会議の様子も描かれます。たしかに国家や大企業といった大きな単位の組織の上層部にいる人間の多くは、優秀でありながらも官僚的、そして管掌業務の細かいことを知りません。ただ、「無能」と「知らない」とでは、その意味が全く異なります。

リーダーであることとスペシャリストであることは混同されがちですが、リーダーはスペシャリストである必要はありません。神輿やシンボルとして担がれる何か(人脈や実績、人徳など)さえ持っていれば、知らない部分は組織としてスペシャリストがサポートすればいいのです。

(閣僚会議の皮肉として、過度なメモの差し込み及びメモに沿った発言しかできない出席者の様子も描かれていましたが、あれもある程度は仕方がないことだと言えます。議場での発言がすべて議事をとられ証左となってしまう状況下において、出席者は(部下のスペシャリストがあげてくれる)メモ以外の発言はしたくないでしょうし、できないと思います。

なにせ発言のすべてに責任が伴ってくるのです。誰も理解できないような専門用語がそのまま飛び交ってしまうのも、間違った発言ができないせいであり、意識高い系のそれとは使用の意味合いが全く違います。)

それらを全体的に踏まえてみれば、作品内における政府の動きは(その成果のほどはさておき)、正しく「完璧ではなくとも最善を尽くして」いたのでしょう。

もちろん「日本」という組織が「完璧」であることを目指すのが政治家の本来の役割ですが、ゴジラが東京湾から北上している状況は、完璧な組織など目指している場合ではありません。まずは課題を解決すること。改革はそのあとで十分です。

実際、組織はその機能自体は何も変えないままに(改革がないままに)ゴジラを凍結させることに成功します。内閣メンバーの半数以上を失うという圧倒的な被害をもたらしたゴジラの二次進行の直後であっても、政治家や官僚たちは行動に対し、「承認」というプロセスを省くことなく続けました。

それは最初こそ皮肉に近い形で描かれており、単純に考えれば真っ先に改革すべきプロセスのように思えます。しかし、混乱の極みといえる状況下においては、承認プロセスがあるからこそ人は安心して動けるのではないでしょうか。

仮に各自の判断でゴジラ迎撃に最善を尽くせと言われても、大多数の人間は何も動くことができないはずです。むしろ、行動の正否の判断を他人に委ねるからこそ、円滑かつ効率的に各自の仕事を進められるという場面のほうが多いでしょう。そして、根回しがないままの無茶な依頼や命令は、それにどれだけ正当な理由があっても、どれだけ切迫した事情があっても、感情としては無用な反発を招くことになってしまいます。

特に今回は日本全土を巻き込む大規模作戦ゆえ、承認や根回しといった旧態依然としたプロセスは絶対に欠かせなかったと考えます。

同時に、承認の有無が本当の意味で問われる場面とは、実は「ゴジラ後」に各問題の責任所在を明らかにしたいときではないでしょうか。

つまり、非常時ですら改革されることのなかったこの「プロセス」は、ある意味では“回復後”の日常を見据えた希望的(本能的)行動であった、と言えるのかもしれません。


3.「非日常性」の欠落

『シン・ゴジラ』は、ゴジラという空想上の怪獣に襲われることがメインの物語であるにも関わらず、あくまで日常生活の延長線上に展開されたストーリーのように感じられます。つまり、本来なら当然描かれるべきである「非日常性」が、劇中から欠落しているのです。

例えば、ゴジラ対策に追われ疲れた矢口に対し、片桐はいり演じるおばさんがお茶を入れてくれるというややコミカルな場面があるように、「ゴジラが来ても変わらない日常」をあらわすための演出が随所に施されています。

それらの中で個人的に一番グッときたのは「対策本部内のゴミ箱からゴミを回収しているおじさん」の日常性でした。ゴジラがきた後なのに、おじさんは本部のゴミを回収しているのです。だって誰かがゴミを回収しないと、本部のゴミ箱からゴミが溢れてしまうから。

このような、非日常の中での日常、つまり作品内における“現実”の象徴として描かれていたのが「仕事」だったように思います。

自衛隊への矢口の謝意に対し、國村隼が演じた幕僚長の「感謝するには及びません、仕事ですから」というセリフの持つ意味は、単純なものではないでしょう。

あくまでも仕事だからやれること。ボランティア(100%の自分の意思)だったらやれないかもしれないけど、仕事だからやれること。それが結果として、誰かの役に立つということ。

恐らくですが、多くの人は現実にゴジラに襲われた次の日であっても、(自分や家族に直接的な被害がないという前提で)ゴジラが去ってさえいれば仕事に行くと思います。社畜だからとか誇りだからとか関係なく、善悪などの概念も超越し、とにかく仕事に行くと思います。なぜなら、それが日常だから。

もちろん、実際にそれぞれがきちんと仕事をするからこそ、非日常の中から日常を取り戻していけるのです。特に、ゴジラに防衛線を突破され、撤退する中での自衛隊指揮官の「前線だけが華じゃなく、後方支援も重要な任務だぞ」的な言葉は示唆に富んでいます。

避難民の交通整理は警察だけではできませんし、避難所のあれこれもボランティアスタッフだけでは無理でしょう。だからこそ自衛隊員は、戦闘で何かしらの理念に殉じて玉砕している場合ではないのです。前線以外に自衛隊だからできる仕事が山のように存在しており、しかも誰かが最後までやらなければならない(でも危険だからやりたくない)仕事の多くは、日常的な自衛隊の仕事でもあるのです。

(もしこの映画が「自衛隊賛歌だ」と責められるとすれば、戦闘よりも自衛隊の“いつもの”仕事が、ある種のメッセージとして受け取られてしまうからではないでしょうか。)

そして避難所で、自衛隊はやはりカレーを配ります。


4.「超越者」の欠落

矢口が組織人としての常識から外れていた行動は、ゴジラ未確認時に「あれは巨大生物だ」と立場をわきまえず主張し続けたこと、大臣の軽口を戦争時のエピソードにたとえ戒めたこと、そして国連による攻撃決定後も抵抗を続けたこと、の3つぐらいではないでしょうか。

それも1つ目と2つ目は可能性の示唆としての注進でしかなく、勢いのある若手ならいかにも言いそうな発言という域を出ないものです。

3つ目も、成功の可能性をある程度見積もれていたからこその抵抗です。もちろん失敗のリスクも大きいですが、東京に核を落とすことと天秤にかければ、賭けたくなる気持ちとなるのもまた当然でしょう。漫画で見かけるような0.0001%程度の「奇跡」に賭ける話では決してなかったのですから。

そして矢口以外の登場人物も、普通の人よりやや個性的という程度に逸脱しているだけで、全員が組織人としてしっかりと機能していました。

つまりこの物語には、常識から大きく逸脱した行動で問題を解決するヒーローやヒロイン、カリスマといった“超越者”が一切登場しないのです。

ゴジラ出現は、超ド級にめんどくさくて解決困難な事案です。誰か一人が英雄的な何かをすればそれで万事OKとなるレベルではなく、解決に向かうためには、関わる全ての人間が自分のタスクをきちんとこなさなければなりません。

逆に劇中の人物たちにとってゴジラとは、超常現象の類ではなく、目の前の解決すべき課題の1つでしかないのです(もちろん、あらゆる課題の中でも最悪のものですが)。

最終手段である血液凝固剤投入の作戦(ヤシオリ作戦)において、“あと1日! 間に合わない!”という要因が「アイデア」ではなく「運搬」だったことは、その象徴と言えるでしょう。

アイデアは、思いついても実践できなければ何の意味もありません。最終局面で求められたのが奇跡的な閃きではなく、地道な「交渉」による納期遅延のお願いだったことは、この事案にヒーローは不要ということを象徴していたのではないでしょうか。

(肝心の交渉において、それこそ奇跡的な活躍をしたはずの赤坂や里見総理が「よく頑張った」という紹介にとどまったという“低い評価”も、極めて現実的。交渉役はとにかく表立っては評価されないもの。)

そしてヒーローという絶対的な正義が存在しないことと同様に、本作では絶対的な嫌な奴も存在しませんでした。

「どうせもう終わりなんだよ!」と、とにかく周囲の人をネガティブな方向に巻き込もうとする奴。この状況でも過剰な権力争いや保身を図る奴。国を裏切る奴。頑なにゴジラを否定し続け、みんなの足をひっぱる奴。妙にポジティブに奇跡に賭けようとする奴。首相官邸なのに、なぜかうろうろして作戦の邪魔になってしまう子供etc…とにかく、劇中に嫌な奴が登場しません。

強いて言えば、個人ではなく「アメリカ」という国家が嫌な奴の役(=映画進行上の必要悪)を担いますが、それらにしても全てが悪意ゆえの行動とは断じられません。世界全体の脅威であるゴジラを核爆弾で東京ごと排除しようという作戦も(細胞分裂で無限増殖するというゴジラのスペックを考えれば)、日本以外の住人の多くは堅実な判断と評価するでしょう。

さらに、常識外の行動をとるはみ出し者も存在しません。

サラリーマン金太郎的なやつが「だあああああっしゃぁ!」と勝手に組織を動かすこともなく、行方不明になっていたはずの男が一人で研究を続け「へへっ! 弱点、見つけたぜ!」などと言いながら帰還してくることもなく、身寄りのない孤独で偏屈な老人が子供たちのために爆弾を積んだダンプカーでゴジラに特攻を仕掛けることもありません。

「現実」を描こうとした物語から、進行を無意味に邪魔する存在や予定調和の人間賛歌という映画や漫画の「お約束」を排除すれば、こんなにもストーリーはストレスがなくなるのだということが実感できました。

(そういう映画も大好きですが、あくまで今回のテーマに対しての設定の問題として。)

例外的に、ほぼ唯一漫画的な要素を背負ったキャラクターが、石原さとみ演じるパタースン大統領特使でした。しかし彼女は(存在感はあっても)結果に影響をほとんど及ぼすことのない存在でもありました。

そもそも通常の映画ならおそらく与えられたであろう「解決者」としての役割を、一切持っていません。

多少のゴジラ情報の提供をおこない、矢口と同じく現状のシステム・体制への疑問者としての役割を果たし、「原爆」を祖母の時代の話として伝えるのみです。

それでもこの役割が「日本人」ではなく「米国人(パタースン)」に与えられたのは、“関係性は近くとも結局は当事者でない人間”という「外の人間」に、“明るさ”をもたらす存在になってもらいたかったからではないでしょうか。

災害後などの絶望的な状況にあるとき、案外「救い」になるのは、外部の人間の無邪気な明るさかもしれません。

また、政府のキーマンで「スクラップ&ビルドで再生するのが日本の強さだ」と語る竹野内豊演じる赤坂も、どこか迎合主義というか今の日本の持つ「制約の中での利益最大化」を体現する存在でしかなく、彼のカリスマによって日本が変わるという未来を予感させません。

国連による東京への核攻撃決定を知らされ「日本が極東の島国だからそんな決定ができるんだ」と吐き捨てる側近に対し、「対象がニューヨークでも彼らは同じような命令をくだす」と赤坂が、どこか覇気がないまま諌めるシーンがその象徴です。

それでも、彼の外交手腕によって日本は危機を脱するのです。

このように、矢口も結局は「この先を切り開く者」的なヒーローとなっていない点も含め、非現実的な何かを背負った超越者が不在の物語だからこそ、特定個人ではなく日本そのものの視点になれるのではないでしょうか。


5.「偽善」の欠落

映画や漫画における偽善性は、ストーリーを盛り上げるためには絶対欠かせない要素ですが、『シン・ゴジラ』はそれすらも徹底して排除していたように思えます。(だって偽だから)

ヒーローもいなければカリスマもいないと先述しましたが、矢口がヤシオリ作戦開始時に自衛隊を鼓舞するシーンも、どこかパフォーマンス的というか儀式的な印象があり、隊員たちの士気が高まるような様子も特に描かれません。観客としては号泣しなければならないスピーチシーンな気がしなくもなかったのですが、いわゆる訓示として普通に流れていきます。

何より、この手の映画に絶対欠かせないはずの「敬礼」を、非自衛隊員である劇中の主要キャラクターは誰もおこないません。個人的には戦争系映画の敬礼シーンは昔から大好きで、本作でも隊員の出撃シーンや矢口とパタースンが別れるシーンでは必ずやおこなわれるものと思っていたのですが、一切ありませんでした。

これもやはり、普段敬礼などしない(防衛大臣以外はする必要もない)政治家に敬礼させたところで何の意味もなく、誰の心も動かすことはできないぞというメッセージであり、偽善性の排除なのでしょう。

それを全体で貫くからこそ、「これは虚構ではなく現実の物語だ」と感情移入しやすくなるのでしょう。

そしてそれゆえに、市川実日子演じる尾頭が「被爆影響は2,3年後には解消される」という解析報告に対し安堵の笑みを浮かべるシーンは、多くの人が素直に受け入れられたのではないでしょうか。

これは尾頭のキャラとしてのツンデレ効果はもちろん、それまで介在しなかった「偽善」的な描写が急に登場したという、作品自体のツンデレ効果の発動によるものだったと考えられます。


6.「死」の欠如

ここまでいろいろと書いてきましたが、個人的にこの映画の最大の特徴は「死」のドラマが一切描かれていないことだと思っています。

死からは間違いなく様々なドラマが生まれるはずですが、誰かの死を悼んだり惜しんだり悲しんだりというシーンは、作品中から見事に排除されています。

防衛線で戦った自衛隊員の死に際や、ゴジラ被害による遺児の発生といった直接・間接的な描写だけでなく、「死体」そのものも登場しません。テレビで報じられる大災害の様子に死体が映らないように、ゴジラはその破壊の跡のみを見せることで、殺戮の意思をもったモンスターではなく、ただそこに在るだけの「大災害」としての存在感を増していきます。

内閣メンバーをはじめとした犠牲者からの遺言的なメッセージ(観客の涙を誘い、劇中人物を鼓舞する演出)も一切ありません。それはもう徹底的なまでに死の匂いを劇中から消しているのです。

「多くの人を救えなかった!」というヒロイックかつ無意味な絶望は、矢口にわずかに見られた程度。「目の前の人を救えなかった!」という不平等な命の絶望(だって他のところでいっぱい死んでるわけで)は皆無で、全員が粛々と仕事を遂行していきます。

そしてヤシオリ作戦終了後、凍結されたまま破壊されることもなく立ち続けるゴジラという災害の「爪痕」を、矢口とパタースンが2人で見つめるラストシーン。矢口が「辞職こそが、この国の政治家としての責任の取り方だ」とパタースンに告げつつも、彼女が立ち去った後に「これから復興しなければならない状況で、投げ出すことはできない」的な(この映画にしては)ヒロイックな言葉をつぶやいたその直後。

ゴジラと一緒に凍結された無数の人々の「死体」が映し出され、突如終劇を迎えます。

この、ある意味で死を完全に“無視”したまま終焉に向かっていたはずの物語は、最後で唐突に、そして何の説明もなく「死」を登場させるのです。

これから復興がはじまるという希望の段階になって、ようやく描写される死。このラストは、直前のヒロイックな矢口のセリフとあわせ、「災害は、それが過ぎ去ってからが本当の闘いの始まりなんだ」というメッセージと捉えるべきでしょう。

恐らくゴジラという災害に直撃している最中は、ある程度「絶対に生き延びるぞ! 勝つぞ!」的なアドレナリンで乗り切れるはずです。(是非は当然あるにして)最後の作戦における明らかな特攻行為も、そういった感情下では自然におこなわれてしまうのかもしれません。

しかし、本当の意味で生き延びるための力が必要とされるのは、気力も感情も物資もお金も何もかもを含め「ゴジラが去った後」だということを、このラストは観客に訴えかけているのではないでしょうか。

『現実<ニッポン> 対 虚構<ゴジラ>』という対決においては、たしかにニッポンは虚構に打ち勝つことができたのかもしれません。しかし、『現実<ニッポン>対現実<大災害>』という対決は、まだまだ終わっていないのです。


まとめというか本当の感想

というわけで、『シン・ゴジラ』における欠落と、それがもたらすリアリティとについてだらだらと書かせていただきました。

最後はとってつけたように添えた感想もありましたが、批判の元になっている3.11想起描写を中心とした政治的思想背景の是非や、自衛隊への特攻推進が見え隠れするところに対する嫌悪感情も人によっては当然起こってくるのかなと。その辺は個人としては、映画だし、人それぞれだし、としか。

ただ話そのものに関しては、観た人の数だけ解釈論が存在する映画だと思いますし、それぞれが自分で勝手に(描かれていない)物語を夢想できるのはやっぱりいいなー、と。

もともと「事件は現場で起きてるにしても会議室だっていろいろ大変なんだよ」っていう話が大好きだったので、それを庵野監督で見れたのは楽しかったです。

そして超個人的に、凍結したゴジラの頭上に白いエヴァシリーズが舞い降りてきて、石原さとみが「エッヴァスィリィーズ……!」と流暢な発音で驚いたところで『魂のルフラン』が流れても全然納得できたであろうエヴァ的な世界観が最高すぎました。

あるいは、その後の矢口が数人のメンバーと組織を立ち上げ「後に、ゼーレと呼ばれる組織の誕生であった」みたいなテロップが表示されて終わっても、やっぱり「最高ーーーーー!!!!!」と言って拍手をしたと思います。

もちろん話の整合性なんか全然とれないわけですが、それでもやっぱり「最高ーーーーーー!!!!!!」と言わざるをえないほど、VHSのレンタルビデオでエヴァを何度も何度もみた自分にとっては「新劇場版よりもエヴァらしい庵野監督作品」に出会えたように感じた夏でした。


以上、『シン・ゴジラ』は最高とただ言いたいだけの感想文でした。

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