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信じる、裏切る

休日って休む日だと思う

文字通り休まないと休日じゃない

どういうことかというと、休みの日は何もしたくないということ(笑)

「せっかくの休みなんだからどっか行こうよ!」という人が羨ましい

そういう人になりたい

時間を有効に使える人

働き出したらそう思うんだろうな

今は毎日休日みたいなものだから

。。。。。。。。。。

少し前に芦田愛菜ちゃんが映画のイベントで

「信じる」ことについて話しているのを見たり聞いたりした人がいると思う

ほんとに賢いなと思った

本をたくさん読んできたからこそだという人もいる

確かにそう感じる

16歳にして、自分の確かな考えを持ち、それを言葉にして相手に伝えることができる

私は、それを口をあんぐり開けて聞いているだけ(笑)

恥ずかしいと思った

尊敬します

芦田愛菜ちゃんの言った言葉を下に載せます

「その人のことを信じようと思います」っていう言葉って結構使うと思うんですけど、「それがどういう意味なんだろう」って考えたときに、その人自身を信じているのではなくて、「自分が理想とする、その人の人物像みたいなものに期待してしまっていることなのかな」と感じて
                                  だからこそ人は、「裏切られた」とか、「期待していたのに」とか言うけれど、別にそれは、「その人が裏切った」とかいうわけではなくて、「その人の見えなかった部分が見えただけ」であって、その見えなかった部分が見えたときに「それもその人なんだ」と受け止められる、「揺るがない自分がいる」というのが「信じられることなのかな」って思ったんですけど
                                  でも、その揺るがない自分の軸を持つのは凄く難しいじゃないですか。だからこそ人は「信じる」って口に出して、不安な自分がいるからこそ、成功した自分だったりとか、理想の人物像だったりにすがりたいんじゃないかと思いました

皆さんはどう考えますか?

100%理解することは難しいかもしれない

一つの考えであって、正しいとかそういうことではない

でも共感できるところや、納得できるところがあるのではないかと思う

私は

「『裏切られた』とか言うけれど、それは『その人の見えなかった部分が見えただけ』」

というところにすごく共感した

この話を今になって持ってきたのには、ちょっとした理由があって

友達が色々あって、仲が良かった友達に裏切られたと考えてすごく落ち込んでいて

その子のことを全否定しているように聞こえたので

「今まで見てきたあの子も本当だし、今回見えた一面も本当。

見る角度が変わったことで、今まで見えなかった一面が見えただけで

これまで見てきたものが間違っていたということではない。

裏切られたと思ってしまうと、これまで信じてきた自分も否定することになる。」

と伝えた

それを聞いたら、その子に対する憎しみに似た感情は少し薄れたようだった

言いながら、愛菜ちゃんが同じようなこと言ってたなって思って

それも教えてあげた

私自身、「信じる」こと、「裏切る」ことを真剣に考えたのは初めてだった

裏切られたと思って、今までのことを全部否定してしまうのはすごく悲しいことだと思う

裏切られることを恐れて、信じることをやめてしまうことはもっと悲しい

自分自身が考える「信じる」ということ

改めて考えてみるのもいいかもしれない

。。。。。。。。。。

「本当に信用できる友達を大切にする」と言っていたことが印象的で

でも、それは誰かのことを否定しているようで寂しい感じがした

出会いを大切にする子だからこそ、何か大切なものを失っていないか心配になった

その子の良さが薄れてしまうようで

信じることを恐れないで

と伝えたい

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