リモート合唱「うたのなか」備忘録(2) 楽曲・演奏

「ずれる」よりも厄介な問題

実は、「ずれる」問題を解決する方法は、とてもかんたんです。「ずれてもよい」曲を書けばいいのですから。たとえば、合唱曲にかぎらずかなり多くの楽曲に含まれるドミナントモーション(単純化すると、「ソシレ」の和音から「ドミソ」の和音への進行です)は使えません。ずれによって前後の和音が重なると濁るからです。しかし、旋法を基礎におく和音進行を用いれば、重なると独特の美しい響きがします。

また、言葉がずれて聞こえる問題は、詩句をソロで歌ってもらい、その他の歌い手は同じメロディをハミングでなぞることでモアレ効果の上に一本の言葉が乗る音響を作れば、解決できます。

むしろ、今回の作曲でもっとも頭を悩ませた問題は、「ハモる」ことに対するリアルタイムのリモート合唱の脆弱性でした。私たちは使いやすさの観点からzoomを利用しましたが、オンライン会議用のこのサービスにおいて同時に聞こえる発話はよくて3人分です。また、だれの発話が全員に配信されるかはシステムしだいです。

和音の全体像をリアルタイムで聞けなければ、その中に自分の声を溶け込ませていくのも困難です。メロディの背景に当たるパートに音程や発音の動きがあると、そちらをシステムが拾ってしまい、メロディは聞こえなくなってしまいます。結果、「伴奏」にあたるパートは、ドローンのような保続音を歌ってもらうことが多くなります。

タイムラグと同時に聞こえる発話者数の「あわせ技」による問題もありました。ずれれば当然楽曲に拍節感は生まれません。また、大きい音量や複雑な和音が使えず、音響の粗密の幅が狭い。結果として、音楽にクライマックスを作るのがとても難しいのです。作曲にかなりの制約があったことは事実です。

「うたのなか」と「うたのそと」

この制約を乗り越える力を与えてくれたのが、今回テキストとした四元康祐さんの「うたのなか」という詩です。私のこれまでの作品の中でも、四元さんの詩に作曲した『さよなら、ロレンス』や「旗」などは、その(挑発的な)意図がかなりはっきりとしている部類に入ります。したがって、今回のように明確な(政治的な?)意図が先行する実験的な楽曲を作るにあたっては、四元さんの詩以外は考えられませんでした。詩への作曲をご快諾いただいた四元さん、ありがとうございました。

「うたのなか」において、語り手は歌への憧憬を言葉にしていきます。しかしそれは、語り手自身が「うたのなか」には存在し得ないという冷酷な事実ゆえのことです。したがって、この楽曲において歌い手は、歌っているので「うたのなか」にいるとも言えるのですが、視点は一貫して「うたのそと」にしかありません。

その意味で、この詩句を歌うことは、音楽のただなかにいながら音楽への自己陶酔を自ら禁じる行為となります。その禁欲性は、ある種のストレスを背負っての演奏をともなうこの企画に合致していると考えました。

また、この詩には、「花」「人」「闇」「空」といったモチーフが登場します。これらはもちろん現実世界の事物に対応するわけではないのですが、一曲の中で視覚的に示すことのできる要素ですので、リモート合唱にしかできないことをしようとする今回の試みには適していました。

脱「癒やしの音楽」

この曲の特徴として、思いのほか歌い手が画面に映る瞬間は少ないことが挙げられます。たとえば第3連では、詩の内容を表現するために歌い手に「目隠し」をしてもらっています。耳の働きに歌い手と聞き手を集中させ、「顔が見えているだけで安心」という感覚を逆なですることを意図した、と言ってもよいかもしれません。

また、脱「癒やしの音楽」を志向しているところも特徴かもしれません。長音階系の旋法は第4連にわずかしか出てきていませんし、最終和音もE-H-Cisという長和音とも短和音ともつかないものです。ハッピーエンドに(そしてバッドエンドにも)解釈を回収させない、と「露骨」に示すことができる点で、音楽はこういうところが便利だと思います。(このあと「映像公開・後日談」編へと続きます)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?