リモート合唱「うたのなか」備忘録(3) 映像公開・後日談

世界でまさにその瞬間に同時に鳴っていた音たち


「うたのなか」は映像が公開されることを想定して作曲しており、楽譜上に視覚効果に関する指示もあります。当然、映像を録画し、公開することにしました。ただし、zoomで記録できる音声そのものでは音質がやはり悪いので、各自手元で録音したものを合成することにしました。

では、タイミングに関してどういう基準で合成するか? 私たちは、「時計合わせ」方式を取りました。たとえば、歌い手がそれぞれの時計で14:30ちょうどに手をたたき、そのあとで演奏する。それを各自が録音しておけば、ミックスの際に、手拍子のタイミングを基準としてタイミングを揃えることができます。

この時合成されて出来上がる音源は、演奏時には歌い手も含めて誰も聞くことのできなかった、「世界でまさにその瞬間に同時に鳴っていた音たち」の集積としての音楽になります。こうすることで、歌い手にとってもあらためて完成した音源を聞く意味が生まれる、と考えました。

こちらが完成した音源動画です。各自が声を録音した際のノイズも入っていますが、それも含めてひとつの記録、ひとつの音楽作品として楽しんでいただければうれしいです。

リモート合唱は「平時」の合唱と地続きである

短期間の間に、作曲、練習、録音、公開のプロセスを通り抜けてきて、リモート合唱にはたくさんの細かな問題点があることがわかりました。しかし、私にとって意外だったのは、それらが「平時」の合唱活動で起こる問題とほぼ同じだったことです。その意味で、リモート合唱を「平時」と断絶したものと捉えることは誤りである、と私は痛感しました。

たとえば、PCやタブレット、スマートフォンの都合で、特定の操作ができない人がいれば、そのフォローが必要です。でもこれって、車椅子や杖の歌い手がいる合唱団で、そのことを考慮することとかわりがないのではないでしょうか。

zoomのミーティングルームに上手く入れない歌い手がいました。これも練習会場までの道に迷った人がいるのと同じです。道順=手順をLINEででも教えてあげればよいだけです。

他人の姿が見えないことを不安に感じる人がいます。でも、私たちは「きちんと他人の声を聞き、耳を使ってほかの声と合わせる」よう普段から要求されています。その不安は乗り越えられるべきものです。

zoomだとすべての音が聞こえない? 「隣に誰がいると歌いやすい」とか、私たちはもとから「自分に聞こえてほしい音」を選択して「みんなで合わせている」気になっているではないですか。どの音にも自分をあわせられる。誰から聞かれても問題ないように正しい音を歌う。その方向に向かっていつでも努力すべきではないでしょうか。

演奏中の機器操作(ビデオミュートなど)が面倒くさい、という人もいるかもしれません。でも、そんな人も譜持ち演奏では楽譜をめくっています。譜持ちで歌うと決めたのなら、適切なタイミングに適切な方法で楽譜をめくることも含めて演奏だと考え、練習すべきです。それと同じではないでしょうか。

タイムラグがあるから難しい。そのとおりです。でもホールで歌うときにだってタイムラグはありますし、そのことを踏まえた練習や対策をすでにしているはずです。

ほら、zoom合唱に特有と思われた問題は、それ以前の合唱活動における課題と地続きではないでしょうか。

今の、この「不自由な」音楽を捨て去らない

もちろん、いずれ再び合唱音楽がたくさん聞こえる日常がやってくるでしょう。私もその時が来てほしいです。しかし、その未来の日常が、「あのときは非常時だった」として、いま必死に奏でられている「不自由な」音楽に耳を閉ざしそれを捨て去るものならば、その日常は、音楽を続けようとする切実で貴い精神に対する裏切りのようにも、私には思えるのです。

だから、今まさにおこなわれている、「不自由」にすら思える音楽の営みをつぶさに観察すること、そしてそれがかつての「音楽」とどう同じで、どう異なるのかを正確に理解したうえで未来の音楽を構想すること、それこそいま私たちがおこなうべき大事な作業なのだと思います。

私にとって、リモート合唱に関するこのささやかな実験は、そのような試みでした。大げさな言い方ですが、この実験を通じてこそ、私は連綿と続く音楽の営みにかかわる「資格」を得られたようにも、感じたのです。

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