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人参「さん」考

母が「はーい、にんじんさんだよー。食べて〜って言ってるよー。」という。
私「にんじんさんってつけないで!かわいそうでたべられなくなる!」と返す。

小さい頃よくしたやりとり。(別に私は人参が苦手で食べたくないから屁理屈をこねているわけではない)

そんな私も、いまは解体した猪や鹿に
はっちゃん
だの
まっちゃん
なおちゃん
だの
ともくん
だのと名前をつけて、もりもり食べている。

なおちゃんとともくんのお肉はまだ冷蔵庫に残っている。(文面がこわいね!)

話は変わるが、私のいちばん古い記憶は、首から下がなくなってしまったお人形。

3歳くらいの時、とても気に入っていた赤ちゃんの人形があった。
ポポちゃんとかではなく、
助産師が分娩介助とか母親学級で使う用の、やたらリアルな青い目の赤ちゃん人形。
頭と手足の先はリアルだけど、ボディは布とワタでできていた。
保育園から帰ったから、なぜか首から下がなくなっていて、(実家が助産院なので大人も子供もいろんな人が出入りする。)
タンスの上で、赤ちゃん(人形)の生首が夕日を浴びていた。

この映像がわたしのいちばん古い記憶。

私はそのお人形がかわいそうすぎて辛くなって、赤ちゃん(人形)の生首を柔らかい布にくるんで袋にたいせつにしまった。
そして、それから5年くらいは、時折思い出したように袋から出して、ごめんねごめんねと泣きながら撫でていた。(怖いね)

子供は生き物と生き物じゃないものの境目が曖昧というけれど(アニミズム)、私はそれがお人形だとわかっていても、ぬいぐるみでも、動物のような命がなかったとしても、なんか人格を与えて、可愛がったり、かわいそがったりしていた。

(たくさんあるぬいぐるみの、どれと一緒に寝るか本気で悩んでいた。この子だけ一緒に寝てもらえなかったらかわいそう…。とか、押入れに仕舞われたらかわいそう…。とか。必然的に、ぬいぐるみは枕元に全員集合して、半ば埋もれながら納得して眠りについた。)

話がずれたけど、とにかく、生物にも無生物にも人格を与えるために、なんでもかわいそうになってしまう子どもだった。
そして、いまでもそれは本質的には変わっていない。

流石に人参さんって言われてもなんの感慨もなく、美味しいね〜って食べられるけど。
捨てられる食べものをみると、強烈に「食べものがかわいそう!」と思ってしまうのである。
この気質によって断捨離でもいちいち要らん苦労をしている気がする。

でも名前をつけたり、「さん」をつけると、人格が生まれるって現象は面白いと思う。

ある人間の人格や人権ってものをないものにしたい時、相手から名前を奪うとか
野菜とか魚に見立てるとか
虫けらにしたてるとか(日本は虫を愛でる国だから、他の国ほどの効果はなさそう。ゴキブリ野郎!ってことばに、相手の生命力だったり粘り強い人格を感じるのはわたしだけか?言われたら嫌だけども。)
そういう風にも使うこともできる。
私も気をつけよう。

ちょっとした思考実験で
(思考実験って言ってみたかったんだ)

あなたがいちばんよく買う野菜か果物を人名に置き換えてみる。
例えば、
人参→鈴木
アボカド→吉川
牛肉→まゆみ

そのまま日常会話
「カレー作りたいのに鈴木が足りない」
「出かけるなら帰りに吉川買ってきて」
「このまゆみはもう賞味期限切れだから捨てとこ」

この、ちょっとしたへんな気分を味わってみてほしい。

えーと、何がしたかったんだっけ?

まぁ人間に対しては失礼にあたる買うとか捨てるって言葉を、野菜や動物には使いますけれど、それはどうなんだろう。彼らにも命と人生はあるだろうに。意思疎通を図る手段を人間側が持たないだけで、動物だけでなく植物にも知性はあるのに。(いつもこんなこと考えるわけではないです)

ちがうちがう、そんなことがいいたかったわけではなく。

また迷走してきたので、最後にひとつ、大切なこと。

長持ちさせたい、大切に使いたいものに、名前をつけると長持ちするよ!

これは長野にいた時、飲み会で一緒になった女の子が教えてくれた。お父様が購入した家電に名前をつけるらしく、とても大切に使って物持ちがよいのだとか。(ハンカチに名前を書くって意味ではなく、そのハンカチをはーちゃんって呼ぶ、みたいなこと)


こんなことを、夜更けにチーズケーキを食べつつ、「ちーちゃんごめんね、もっとゆっくり味わってあげられなくてごめんね…。なんかちーちゃんって言うと人みたいだな!」(これから遠出するのに年末の片付けもパッキングもしないで寝てしまったのでバタバタしていた)
と思いながら考えていたのでした。

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