諦められるようになるには、土台が必要である
最近、諦められることの効用を感じている。
今日は諦めがつくことによる思いがけない変化と、どうしたら諦めがつくか、ということについて語ろう。
諦めがつくようになったら遅刻が減った
正直に申し上げると、遅刻が減った、というのは正しくない。
そもそも私は遅刻魔の自覚があるので、
人と待ち合わせを極力しない。
遅刻しなくなったなーと自覚した時点で
人との待ち合わせをしていない。
そりゃあ遅刻もしないわけである。
なので、正しくは、
外出前の余裕が生まれた。
次の行動に移れるようになった。
それに気づいたのは、
お昼からカフェに行こうと用意をしていた時のことである。
余裕がある…
だと…!?
なんか、すごく
余裕をもって動けてる感覚。
もっと解像度をあげると
自分のことしかしたくない!
って感じがかなり和らいでいる。
私はいままで
「わたしにはやりたいことがいっぱいある!
日記かいたり、メモしたり、絵を描いたり、本を読んだり。
ひとつひとつ、すごく時間がかかる。
だから、私から時間を奪うんじゃねぇ!!」
という
マイペースヤクザ
かつ
時間ヤクザだった。
それでいて
めちゃくちゃ遅刻する
遅刻がデフォルト
ギリギリまで日記かきたい
絵を描きたい
あれも、これも
で出発ギリギリになる
遅刻に年季入りすぎて
相手のダメージを減らす連絡をサクッとできるくらいに
(嘘なく理由を伝える、
何分遅れるか正確に伝えられる、
全面的に謝れる)
遅刻していた。
けれどもね、
さいきん、
まぁ、いっか!
と思えるようになったのだ。
諦められるようになった。
いま、全部日記書ききれなくてもいっか。
しょーがない。
大丈夫でしょ。
この本、全部読めなくてもいっか。
多分読めたところが必要なところ。
イラスト、描けてないのたくさんあるけど
描く楽しみが残ってる!
みたいに自然に思えるんだよね。
諦める、ができるようになった。
前は
もったいない!
ギリギリまで、全部持って帰りたい!
根底にあるのは「損したくない思考」「もったいない思考」だったように思う。
時間制のお店なら、時間いっぱいまで居ようとするとか
ある食べ物を全部食べきってしまおうとするとか。
そんなわたしが、
臭いがヤバくなったトリムネを捨てることができたのである。
いままでなら、臭くてもなんとか食べてた。
いや、臭うし、むりやん。
ちゃんと食べられなくて、
ごめんなさい🙏とさよならできた。
その日の時間制カフェも、
20分くらい残ってたけど帰ることにした。
もう本も読み終わったし
満足したから。
(気にはしてるあたり、時間余裕族 初心者て感じは否めないが)
全部使い切れたか、よりも
満足したか、の「自分ベース」で
行動を切り上げられるようになってる!
出発前も
どうせ全部は終わらんし
切り上げて片付け、荷造りしよー
て諦めて次の行動に移せるようになった。
諦めると、動ける!
しかも、不思議なことに
しかも、結果的にふしぎなことに
全部手に入るんだよね、諦めたほうが。
佐渡のさいごも
出発前に熟れたネクタリンを味わったり
送ってくれる友達の車のなかでゆったりとした気分でいられたり。
このカフェの日も、出発前に
布団たたんで
部屋片付けて
掃除機かけて
ゴミもついでに出せたり。
なんで諦められるようになったんだろう
諦めが肝心
てのはいろんな本や人の話で「知ってはいた」
完璧主義は自分の首を絞めますよ、って文脈で。
でもなんか謎の焦燥感があって
自分にはどうしようもない強迫観念のように
今していることを切り上げられなかった
分かっちゃいるけど、辞められない
ってやつ
それがふとできるようになったのはなぜか。
ひとつ、これだ!バーン!
って言えたら楽だけど、そういう答えは大抵嘘がある。
実際は、心、体、土台つくりが混じり合って、諦めのつく余裕として立ち現れてきた、あたりなんだろう。(真実はいつもかったるい)
心について
①日々浮かび上がってくる「べき」の取捨選択
②自己受容の練習をしている。
「べき」の取捨選択
「友達のところに行ったら、なるべく行動を共にすべき」とか
「なかなか会えない家族・友人との時間を優先すべき」とかね。
時間や行動は量だけじゃない、質をとったっていい。一般的な正解じゃなくて、わたしと目の前の人との最適解を探していくスタイル。
あとは、マイペースヤクザであることを自覚して、それに無理のない行動を選ぶ。
自分を知って、軸を持ちつつ、関わる他者と対話する。やってみてどう感じてるか、チェックしつつ試行錯誤。
自己受容の練習 ほめ日記
自己受容の練習では、毎日(は苦手なので2〜3日分を思い出した時に)ほめ日記というのを書いている。
みたいなやつである。
一般的によいこと、というより
わたしが私を幸せにする選択をできた
ならば、なんでもありなのである。
とかじゃなくても(そんな日もあるが)
みたいな感じである。
そんなことで褒めてたら、だんだん怠け者になってしまわない?と思う人もいるだろうが、
それは半分正解、半分不正解である。
(で言ってみたかっただけ♡)
たしかに私は怠け者になっている。
同時に勇気をだせるようになって
チャレンジしたり、より自分の強みで貢献することが気楽にできているように感じるからだ。
なので、より自分の本質に純度が上がっているというか、余計なものを削ぎ落として
尖りつつある、そんな感じがする。
身体について
やはり心持ちだけで人は幸せになれないのよ。
根本の体力とか健やかさ、元気さがないと
辛いものがある。
「落ち込みやすい」
「イライラする」
「つい悲観的」
これは性格か?
性格もあるけど、そこには低血糖とか腸の荒れとか睡眠不足が根底にあったりする。
(腸脳相関というやつ)
心サイドのアプローチより、体への物理的な対策が早かったりする。
あれだ、心を綺麗にするより、部屋を片付けるほうが、手っ取り早く心がすっきりする、みたいな話。
なので炭水化物も毎食食べるとか
よく噛んで食べるとか
よく寝る、(お昼寝含む)
とかしてみてる。
まだ普通の人と比べたら私の腸は荒れてるだろうし、寝るのも下手くそだ。
けど、それでこんなに能天気なので
伸び代しかない。最高である。
あとは土台
この2〜3ヶ月でいろんな人の考え方を学んだ。
中でも今回のテーマに関連が深いのは「ナリ心理学」のブログを読んだこと。
ざっくりまとめると、
あなたの自己肯定感の低さは母親との関係(自分が母親をどう捉えているか)が根本の原因
母親を庇わずにクソ認定(!?)して
母親が自分にしたことはよくなかった、
しかし母親自身も間違ったインプットをしたせいでそんな振る舞いになっただけ。本質的には素晴らしい存在(ダイヤモンド)である
そんな存在から生まれた自分も素晴らしい存在(ダイヤモンド)であると思い出す
こんな内容の記事を140本くらい読んだり、
自分の経験を語ってくれている人の話を聴きに行ったり、
母をどう捉えているか向き合ったり
そんなことをした。
(140本読む私もすごいが、書いたナリさんもすごい。自分の経験と変化をシェアしてくれたAさんもすごい。)
そこから、
自分の存在価値を認められることが土台であり
どんな挑戦も、自己改革も、他者貢献も、その上に積み上げるものなので
その土台がなければしんどいまま
ということが腑に落ちた。
言い換えると
「自分は唯一無二なのだ」って土台がなければ
すべてがなにかを証明するためになってしまうのよ。
わたしが稼いでいる証明
リア充してる証明
賢くて価値がある証明
すごい証明
ひっくるめて、承認欲求という。
でもいちばん近くにいるわたしが
わたしの存在価値を承認してなかったら
ずっと虚しい、くるしいまま。
(強迫的になったり、自己否定だったり、自己犠牲になってしまうから)
幸せではない状態。
だけど、
わたしが私の存在価値を認めてさえいれば
「唯一無二な存在であると確信」していれば
いまがどうだろうと
過去がどうだろうと
未来がどうだろうと
いま、この瞬間から幸せ。
(不快なら、幸せになる選択を選べる)
穏やかな幸せに満ちているかんじ。
そうすると、
自然に人にギブしたいって思える。
貢献って意味で。
それも、自己犠牲にならないバランスで。
一時的な負荷もおもしれえマインドで。
諦めの話に戻ると
自分にとって心地よいかどうかで
今してることを切り上げられるようになる。
すごい人である必要がないから、
無理しなくていい
という感じ。
満たされてるから
マックスじゃなくても(損しても)
いいって感じ。
完遂できる素晴らしい自分に
拘らなくてもいい
って感じ。
土台は器でもある
今年のお書き初めに「器」って書いたけど
器には「土台」の意味もあったなーって思い出して
えがいた願いが叶ってる!!って感動してしまった。
受け取る器であり、
物事を始める土台である、
満たされた自分
安心している自分
存在の価値というものを
この半年で思い出させてもらったな。
そんな表に現れてるところとしては、小さな
私にとっては大きな
お祝いでした。
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