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なんども読み返してしまう一文、プルーストの「失われた時を求めて」より

2016年6月17日

本を読んでいて、ときどき、何度も何度も読み返してしまう文に出会うことがあります。

それは、自分がいつか体験したものごとをうまく説明できずに、ただ頭の中でそのさまを反すうするだけだったものがピタリと文章になっていたときや、長く続く心情描写や情景描写の途中、唐突に現れるあざやかな一文だったりします。

マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」の一文は、まさに、彼の書くところの、「ライトを当てられた暗い壁」という表現がぴったりのものでした。

「失われた時を求めて」は、プルーストが30代後半のときから死の直前まで書き続けた、その間唯一と言っていい作品で、日本語訳では、原稿用紙1万枚を超える作品です。

テンポよく進むときもあれば、数ページにも渡って、ひとつのものごとをさまざまな角度から、ときには執拗なほど比喩を多用して綴られる息の長い文章に、目で文字を追いつ戻りつしながら、「どうしよう、はじめからこんな調子じゃ読み切れるかわからない…」と挫折しかけたときのことです。

それまでの、まるで灰色だったページに突然、陽が射したかのような文章にぶつかり、はっと目が止まり、背すじを伸ばしてもういちど今度はひと言ずつゆっくりと読み直し、これなら読み切ることができるかもしれないと思ったのでした。

紅茶に浸したマドレーヌをひとさじ口に入れたとたん、かつての記憶、「知性」で記憶しなかったために忘れてしまった風景や人びと、そういった「失われてしまったかに思われた記憶」が引き起こされ、そこから次々と過去の記憶がよみがえってくるという、有名な場面です。

その文章がこちらです。

(・・・)そしてあたかも、水を満たした陶器の鉢に小さな紙きれをひたして日本人がたのしむあそびで、それまで何かはっきりわからなかったその紙きれが、水につけられたとたんに、のび、まるくなり、色づき、わかれ、しっかりした、まぎれもない、花となり、家となり、人となるように、おなじくいま、私たちの庭のすべての花、(・・・)、町も庭もともに、私の一杯の紅茶から出てきたのである。

これは、ひとえに、翻訳をした井上究一郎さんの言葉えらびと、構成がすばらしいとも言える気がします。

「失われた時を求めて」は、何度も出版されていますので、同じ文章でも、翻訳者が変わればずいぶん印象が変わります。

たとえば高遠弘美さんの翻訳ですと、

日本人がよくする遊び---陶磁器のお椀に水を満たし、そこに、小さな紙片をいくつか浸して遊ぶのだが、水に沈めたと思うと、紙片はたちまち伸び広がり、ねじれて、色がつき、互いに異なって、誰が見てもわかるしっかりしたかたちの花や家や人物になる、そんな遊びと同じように、いま、私たちの家や(・・・)、町も庭もともに、私の一杯の紅茶から出てきたのである。

吉川一義さんの翻訳は、かなり井上究一郎さんに寄せた翻訳となっています。

そして日本人の遊びで、それまで何なのか判然としなかった紙片が、陶器の鉢に浸したとたん、伸び広がり、輪郭がはっきりし、色づき、ほかと区別され、確かにまぎれもない花や、家や、人物になるのと同じで、(・・・)、すべて堅固な形をそなえ、町も庭も、私のティーカップからあわられ出たのである。

また、角田光代・芳川泰久 編訳の、「失われた時を求めて 全一冊」(もとの作品を10分の1にちぢめたもの)では、

縮れた紙を水に浸すと、それがどんどん伸び広がって、花や家のかたちになっていく、そんなふうに、今や家の庭のすべての花ばかりか(・・・)、この町も庭も、ぼくの口にした紅茶とマドレーヌから飛び出してきたのである。

こんなにも違うのです。

もしも初めて読んだのが井上究一郎さんのものでなかったら、おそらく、こんなにも気に入ることはなかったし、この物語を読み続けることを諦めていたと思います。

と、同時に、翻訳というのは、途方もない作業であるなと思いました。

ブローティガンの一連の作品も、藤本和子さんの文章だから、あんなにも長閑で非日常な世界を表現できたのかなと思っています。

本としていちばん読みやすく現代的だと思ったのは、高遠弘美さん訳のものです。
現在も翻訳途中でまだ4冊くらいしか出版されていないので、ゆっくりしたペースで読み進めることができそうです。

ところで、「Little Miss Sunshine 」というロードムービーに、自称米国ナンバー2のプルーストスカラーであるフランクおじさんが登場します。

フランクおじさんと、彼の甥でニーチェを愛読しているドウェイン。
それぞれ大きな挫折に直面したふたりが、海辺で語らう場面があります。

(ドウェインとフランクおじさん)

嫌なことやくだらないことを体験せずに済ませられたらいいのに、というドウェインに対し、フランクおじさんはこう言います。

マルセル・プルーストを知っているだろう?

彼はまったくの負け犬だった。

職にも就かずに、どうしようもない恋愛して。

ゲイで。

誰も読まないような本を20年間も書いて。

そんな彼が、その生涯のおわりに人生を振り返って悟ったことがある。

苦しくてつらかった年月が、じつは人生最良の日々だったと。

その時間こそが現在の自分自身を形作っているんだと。

幸せな時間はムダだ。

そこから人は何も学ばない。

これを踏まえて「失われた時を求めて」を読んでいますと、「苦しみ」がいたるところに登場します。

それはたとえば、特に異性との関係において、もしもそこに「苦悩」や「悲嘆」や「残酷」が存在しない、正常な関係であったならば、自分はきっと、その関係に興味を失ってしまうだろう、主人公はそう考えて、自分からわざと困難な状況になるよう仕向けるような場面が多いのです。

しかしフランクおじさんの言葉によってその行動の意味が分かったようで、ちょっとだけ読みやすくなった気がします。

さらに同性愛が多数登場するのも、納得です。

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