日和見とは
昨夜はロケット発射が見られるかも、流星が見られるかしらと目をしょぼつかせながら深夜まで起きていた。
結局見られずじまいだったが、ほぼ満月が隠れることなく照らしてくれ、月光浴ができて満足だ。
日和見(ひよりみ)という言葉がある。
若者の間で、本来の意味とは違った使われかたをしているという。
「日和る」とは物事に積極的にかかわらず、傍観するという意味。
意志を曲げて利益のあるほうにつくといったあまりよいイメージではない使いかたもある。
もともとは天気をみることだったらしい。
「今日はよかひよりじゃねー」
祖母は言ってたようにおもう。
学生運動が盛んなころは「あいつは日和見主義だから」のような使い方だった。
今は、怖じ気づく、ビビるといった意味で使われているという。
「ひよってるヤツなんかいねーよな」
言葉は変化していく。
いちいち「それは違うんじゃない」と言ってはおられない。
神業ならわかるが「神対応?なにそれ」
尊い仏はわかるが「推しが尊い、なんだそれ」
けっしていうつもりはない、いうつもりはないのだ。
造語は許せるが違う意味になるのは…。
いいえ、けっして言わない。
夏目漱石は造語、新語の名手だったと聞く。
英語教師の時代、生徒に「I love youはどう訳しますか」と聞かれ「月がきれいですね、とでも訳しておけ」と言った話は有名だが真偽はさだかではないらしい。
「牛耳る」も漱石が作ったと思っていたが、縮めただけで、「牛耳を執る」と古代中国では使われていたそうだ。
他に、野次をとばすを「野次る」に縮めたのも漱石という。
明治の文豪がやったことは受け入れて、若者の新語は受け入れられないのは大人げない。
ここは日和見といこうか。
今日はバナナを見たり、もらったりした。
実のなる木はいいなあ。
持ち家でないと植えられないから私はもっぱらおすそ分けに頼っている。
ロケット打ち上げは内之浦だったらしく、見えるはずがなかった。
今日も読んでくださってありがとうございます。
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