島日記 小紫(小式部)は紫式部の娘ではなく和泉式部の娘
コムラサキ(小紫)の実がはち切れんばかりに膨らんでいた。
別名は子式部。
ムラサキシキブに似ているが、実が多くつき低木で、見た目もいいので、園芸店にあるのはほとんどコムラサキである。
平安時代の王朝絵巻を少し覗いてみよう。
小式部内侍は紫式部の娘ではなく和泉式部の娘である。
歌人であるが、歌は親に代作してもらっているのではという疑惑があった。
親の七光りでもてはやされていると。
ある時、藤原定頼(藤原公任の長男)が局の前を通りながら、
「小式部さん、今日の歌会の歌はもう届いたかい?」と皮肉を言う。
すると小式部は御簾を少し開け、歌を返した。
「大江山いく野の道は遠ければ まだふみもみず天橋立」
大江山から生野への道はは遠いので、私は踏み入れたこともないし、天橋立に居る母の手紙も受けとっていません。
掛け言葉を巧みに使い即答した返歌で、定頼はきまり悪げに立ち去った。
小式部内侍の歌詠みとしての名声が高まったエピソードである。
古今著聞集の一節だ。
小式部内侍は、母親同様多くの貴公子と浮き名を流したことが宇治拾遺物語にある。
その中に藤原定頼の名もあるので、もしかしたら仕組んだのではという説もあるようだ。
だが二十代で世を去った。
和泉式部の哀歌が多くある。
藤原道長全盛の時代で、長女である中宮彰子のもとには、紫式部とその娘大弐三位、和泉式部と小式部、赤染衛門、伊勢大輔と百人一首に出てくるそうそうたる女性たちが集まり、才と美を競った。
ちなみに、清少納言の娘は、上東門院小馬命婦。
清少納言は中宮定子に仕え、娘は中宮彰子に仕えている。
大奥の女性たちの物語も読んだが、平安王朝の女性のほうが自由に生を謳歌したように思える。
時代のせいもあるが、和歌などが残っているからだろう。
熟れたコムラサキに寄せて。
今咲いている紫色の花たちを見つけた。
今日もお付き合いくださってありがとうございます。
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