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生きていることへの感謝の念でいっぱいの小説

芥川龍之介「蜜柑」こそ、人間の幸せを「心を躍らすばかり暖な日の色」をした稠密な点で描き切った名品だと思っていたところ、兄弟航路さんのnoteの中で、太宰治が「もの思う葦」で「蜜柑」を褒めていると知りました。

そこで、天才の眼で同じと見えたほかの作品をぜひとも読みたいと思い、調べてみました。

蜜柑と出世は、通底するあたたかさで間違いなさそうですが、愛読していない作家の代表作ではない短編名から逆引きするのは、なかなか難しく、当たっているかどうかは分かりません。

どなたか、お好きな方で、ご存知の方がいらっしゃれば、ぜひ教えてください。

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太宰治『もの思う葦――当りまえのことを当りまえに語る。』

感謝の文学

これだけは、いい得る。

窓ひらく。佐藤春夫
好人物の夫婦。志賀直哉
出世。菊池寛
蜜柑。芥川龍之介
春。豊島与志雄
結婚まで。徳田秋声?
鯉。井伏鱒二?
あすなろう。深田久弥?

等々。生きていることへの感謝の念でいっぱいの小説こそ、
不滅のものを持っている。

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感謝の文学(全文)
 日本には、ゆだん大敵という言葉があって、いつも人間を寒く小さくしている。芸術の腕まえにおいて、あるレヴェルにまで漕こぎついたなら、もう決して上りもせず、また格別、落ちもしないようだ。疑うものは、志賀直哉、佐藤春夫、等々を見るがよい。それでまた、いいのだとも思う。(藤村については、項をあらためて書くつもり。)ヨーロッパの大作家は、五十すぎても六十すぎても、ただ量で行く。マンネリズムの堆積たいせきである。ソバでもトコロテンでも山盛にしたら、ほんとうに見事だろうと思われる。藤村はヨーロッパ人なのかも知れない。
 けれども、感謝のために、私は、あるいは金のために、あるいは子供のために、あるいは遺書のために、苦労して書いておるにすぎない。人を嘲えず、自分だけを、ときたま笑っておる。そのうちに、わるい文学は、はたと読まれなくなる。民衆という混沌こんとんの怪物は、その点、正確である。きわだってすぐれたる作品を書き、わがことおわれりと、晴耕雨読、その日その日を生きておる佳い作家もある。かつて祝福されたる人。ダンテの地獄篇を経て、天国篇まで味わうことのできた人。また、ファウストのメフィストだけを気取り、グレエトヘンの存在をさえ忘れている復讐の作家もある。私には、どちらとも審判できないのであるが、これだけは、いい得る。窓ひらく。好人物の夫婦。出世。蜜柑みかん。春。結婚まで。鯉こい。あすなろう。等々。生きていることへの感謝の念でいっぱいの小説こそ、不滅のものを持っている。

「ダンテの地獄篇を経て、天国篇まで味わうことのできた人」と太宰が言うように、ソバやトコロテンではないものに執着する人間は、いま天国にいる人でさえも、ある種の業として、地獄篇を経るのだと思われます。

天国篇まで行く人もあれば、メフィスト気取りで地獄に安住してしまう人もいるけれど、どちらにせよ、出来上がる仕事が大盛りソバでなければいいわけなので、どちらの態度がいいとは言えない。

ただ、間違いなく言えることは、自分の立ち位置が地の底でも天上でも、ファウストのマルガレーテ(愛称グレートヒェン)の存在を忘れない人が、不滅に通ずる光を見つけられるということ。

この話を読んで、私は、太宰治の「貨幣」という話を思い出しました。

女に擬人化された貨幣が、大人の欲にまみれた手から、最後に赤ん坊の背中に押し込まれたときに、「こんないいところはほかにないわ。あたしたちは仕合せだわ。いつまでもここにいて、この赤ちゃんの背中をあたため、ふとらせてあげたいわ」と言う話。

大人の欲から、赤ちゃんの背中まで。

どちらの側に立つか、どちらの側に焦点を当てるのがいいとは言えないけれど、どちらも視えているということの重要さを、思い知らされる一篇でした。

最後まで読んでくださって、ありがとうございます。