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出発直前 — 東京 [1995年3月] (002)

 「ガキッ」

 歯が欠けた。

 正確には、詰めモノの金属がガムを噛んでいて突然壊れたのである。場所は東京渋谷、センター街の交差点。ニュージーランドに向けて出発する二日前のことだ。

「ヒツジ飼いにならないかい」と言い出してから一年経っていた。ぼくらはお金を貯め、英会話を習い、ニュージーランドの資料を集めた。仕事はもちろん辞めた。ぼくは辞めさせられたのかしれない。

「ニュージーランドに行くつもりです」
 と出発する3ヶ月前に会社に云ったところ、
「そう、じゃあ今月で辞めてください」
 と予定より三ヶ月も早く辞めさせられたのだ。
 お気に入りのマンションを引き払い、家財道具をお互いの実家に分散し、まだ二年しか乗っていない車は、心配であったがイトコに貸した。帰国後の再就職口や住む場所の予定もない。ニュージーランドで一年間の生活を決意したために、失ったものは、とても大きいような気がする。それは社会人として大切なモノかも知れない。

 「不安よ。でも楽しみだわ」

 今回、生まれて初めてパスポートを手にしたカミサンがいう。それは嘘じゃない。全くその通りだ。いろいろ考えたが、クヨクヨ悩むことはなかった。

 しかし、ここまで来て、不安の落とし穴がひとつポッカリ開いたのだ。
 渋谷の交差点。信号は青に変わったが、ぼくは足を踏み出せないでいた。口の中には、砂を噛んだような感覚が残っている。恐る恐るガムを出すと、そこには米粒ほどの金属片がしっかりと埋まっていた。欠けた箇所を舌先で探す。確かに穴がある。

 「オイオイ・・・」

 そのあと「四ヶ月前に、完璧に歯の治療はしたんだぜ」と、続けたかったが言葉にならず肩を落とした。「明後日は、出発なんだよ」とも、言いたかったがため息に変わった。

 本当に「オイオイ・・・」である。

 「なにはともあれ歯医者。治さなきゃ。保険証ある?」
 ぼくは力なく頷く。その不安の穴は、とてつもなく巨大のように思えた。
 ぼくは初めて訪れる歯医者と散髪屋が嫌いだ。長年同じ店しかいったことがない者にとって、初めての店は不気味で恐ろしい場所でしかない。それが出発の二日前、まして東京。それも渋谷での出来事なのだ。十年ほど前、東京近郊で二年間暮らしたが、恐ろしくて一度も散髪屋のドアを開けることができなかった。そんなぼくにとって、これはまさに「恐怖」そのものである。
 「あそこ。あそこにあるよ」
 カミサンが『歯科』の看板を見つける。雑居ビルの古いエレベーターで三階まで上がるが、医院の中は暗く、その日は休診日であった。
 内心、ホッとした。
 しかし、冷静に考えるととても大変なことである。もし、この穴をこのまま放置していたら、虫歯がどんどん進行し、あの想像を絶する痛みのため悶絶するに違いない。もしくはニュージーランドの歯医者にかかり、莫大な治療費を請求され、身ぐるみ剥がされ、あえなく帰国となってしまうに違いない。いや、きっとこの穴からなんらかのウイルスが侵入し、発熱、高熱、ついには、昏睡状態に陥り南の島で朽ち果てるに違いないのだ。
 カミサンに励まされながら、何軒か回るが、どういう訳かこの日は休診日の処が多く、やっていても物凄く混んでいたり、「予約なしでは受け付けられません」という一見さんお断りの偉そうな「店」も少なくなかった。
 「だから、東京はイヤなんだ」
 田舎者の決まり台詞を吐いた。
 どこをどう歩いたのか、気がつくと人影はなくなり、閑静な高級住宅街の中にいた。そして、カミサンが光り輝く歯科の看板を発見。
 近づくとそれはまるで美術館。二台の黒いベンツが入口前に停まり、高級レストランのようでもある。天井の高いロビーには、本革張りのソファーと洋書ファッション雑誌。ほかに待っている客の姿はなく、歯科独特のあの「キュイイイーン」という音の代わりに、クラシック音楽が静かに流れていた。口をポカーンと開けて物怖じしているぼくらを、受付の美しい女性がニコリと微笑んでみていた。

 一時間と三十分、問題の穴は埋まった。

 「お大事に」と彼女がまたニコリと微笑む。ぼくも麻酔が効いていて口元を引き攣らせながらニコリとした。

 初めての歯医者も悪くない。行ってしまえば、なんとかなるものなのだ。

成田国際空港にて


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