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その開発援助は本当に必要か -途上国の現場にはびこるAllowanceという矛盾-

アフリカをはじめとする途上国には、ワークショップなどのサービスを供給する援助側が、現地で出席している受益者側に金銭的な日当を渡す「Allowance」という文化が広く存在する

Allowance(アローアンス)。アルクの英辞郎on the webでは許容、容認、割当量、値引き、余裕など、様々な日本語訳があてられているが、本日書く内容に最も適する訳語は「手当て」だろうか。ここアフリカでは往々にして一日単位で支払うことが多いので、僕自身は「日当(一日あたりの金銭的な手当て)」と頭の中で訳している。

全ての国にあるかは分からないが、アフリカの多くの国で、このAllowanceという「文化」は広く見受けられるようだ。バングラディシュでNGO活動の経験がある僕の友人が、当時(2000年代前半)のバングラディシュにもAllowanceは存在したと言っていたので、おそらくアジアの中の最貧国のいくつかには、まだAllowance文化が残っている地域もあるだろう。僕が詳しくないだけで、もしかしたらタイやマレーシアのようにかなり発展した国でも農村部に行けばAllowance文化は残存しているかもしれない。(昔は日本にもあったのだろうか、非常に気になる)

このように書くと普通の人なら「“日当”は、一日その人が働いた労働への対価として支払うものでしょ? “日当”なんて、どこの国にもあるに決まっているじゃないか?今の日本でもそういう種類の雇用、いくらでも見つけられるでしょ?」とお思いになるかもしれない。

だが、ここで言う途上国のAllowanceは、そういう普通の意味での「バリューを提供した者が、バリューを受け取った者から貰える金銭的見返り」とは、全く異なる。むしろ逆で、途上国では、会議やセミナー、ワークショップなどの主催者(価値を提供する側)が、参加者(価値を受け取る側)に支払うものが、Allowanceなのだ。

典型的な例を出そう(下記はいずれもフィクション)。

とあるNGOがタンザニアのとある農村でワークショップを開催するとする。ワークショップの内容として、彼らは「効率的な稲作の仕方」「新しい農業機械の使い方」など、現地農民にとても有益なナレッジを提供できるようコンテンツを準備した。そして迎えたワークショップ当日。その日のコンテンツが終わりに差し掛かる頃、一人の農民が、ワークショップをコーディネートしたNGO職員にこう切り出した。

「今朝から母親の体調が悪かったから、今日は早めに帰らなければいけないの。今日の分のAllowanceを、今もらえるかしら。」

別の事例はこうだ。

とある国際機関がフランスで国際会議を企画した。会議は援助対象国の保険医療制度改革に関わる重要なものであるため、各国の保健省では副大臣クラスに広く声がけをしていた。当然被援助国であるモザンビークでも、保健省のX副大臣のところにも招待状が来たのだが、彼はフランスには行かないつもりらしい。その理由を尋ねた部下に、彼はこう答えた。

「あの会議はAllowanceが少ないからね。同時期にAというNGOとBというNGOの国際会議が南アであるだろう?あちらの方がAllowanceの額も大きいし、あちらに出ようと考えているよ」

Allowanceは、アフリカ諸国等に対する援助プログラムでは切り捨てることの難しい当地に不可欠な文化となってしまっているが、果たして本当にAllowance無しには成り立たないような援助は、必要なのか

最初に紹介したタンザニアの農村の例は典型的な事例だ。アフリカでは、短期的なAllowanceという「インセンティヴ」無しに、長期的には当事者に必ずメリットのあるワークショップに人を集めることは、とても難しい。

勝手な推測だが、恐らく「援助」なる概念が生まれた頃、即ち、西洋が「文明の光を後進国にもたらす」というミッションを信じて疑わなかった頃、このAllowanceという西洋が生んだ文化が現実的な要請に応じて生まれたのだろう。ある日、ミッションに燃えるヨーロッパの人間が、彼らが思う「現地アフリカ人の生活を向上させる重要な知識を伝播するための講義」を行おうとしたが、Allowance無しには人の集まりが悪かった。そこで次回は逆に、食事や金銭を「お小遣い」として渡してみたところ、狙い通り出席者も増え、その後やめるにやめられなくなった、というのがことの始まりだと想像する。

もはやAllowanceは、アフリカの人々にとっても「外国から来た人間が開くワークショップやセミナーについてくる、ありがたいもの」として広く文化として根付いているし、プロジェクトでインパクトを出すにも、まずはそうしたワークショップに出席してもらわないことには始まらない援助機関も、止めるに止められない。むしろ、二つ目の事例に描いた通り、Allowanceの大小が「出席率=イベントとしてアフリカの人に選んで出席してもらう可能性」を左右するため、簡単には単価を下げにくいという背景すらある(なお近年では、援助機関/NGO同士で、Allowanceの付与額を一律にし、出席者獲得競争を避けるような努力が行われているが・・・)。

最も厄介なことは、国によっては、省庁・政府機関等での職員の給与水準が、数多あるAllowance受け取りの機会を考慮した上で(低めに)設定されているような例もあることだ。もう一歩進んで言えば、現地の省庁・政府期間では、Allowance無しには(現地のエリート層である)職員が満足するような水準の給与を支払うことが出来ていないケースも存在する、と言えるだろう。

私自身が民間企業でしか働いたことが無いからかもしれないが、このAllowanceという文化は直感的に受け入れ難い。それは、まがいなりにも資本主義の社会で生きている以上、「バリューを享受した者が、バリューを提供した者に、対価を払う」というのが、原則だと思うからだ。この原則が倒錯している現在の援助は、本当にアフリカにとって必要なものなのだろうか、とどうしても訝しく思ってしまう。

また、より穿った見方をすれば、農業ワークショップで教えたことを実行せず、それによって長期的に生活を改善しようとも考えていない現地農民は、むしろNGO/援助機関側に対してバリューを発揮している、という論理も組み立てることは可能だ。「可哀想な現場」があり、そこに対し「働きかけをする尊い存在」であると自己規定をし、マーケティングをすることで、NGOや援助機関は自らのアイデンティティを確立できるし、先進国の寄付マーケットでお金を集めることも可能になる。そうした一連の「ビジネスモデル」を組むには、NGO/援助機関にとって、どうしても「現地の可哀想な存在」が必要だからだ。

上記はあまりに穿った見方だが、例えこのような捉え方が、今起きているアフリカの援助の現状を理解する上でより役に立つとしたところで、先ほどの「Allowanceを必要とするようなNGO/援助機関の活動は、本当に必要なものなのか」という疑問を取り下げることには繋がらない。

こうしたAllowanceのカルチャーを目の当たりにしたからといって、私自身はまだ「故に援助は不要である」と言い切れる自信はない。少なくない数の援助関係者が、Allowance文化に疑問を持ち、少しでも状況を変えようと動いているのも事実だからだ。

今日は、先日夕食をご一緒させて頂いた国連職員の方が、こうした「現場の矛盾」に向き合いながら日々活動を続けられていることに勇気を貰い、思い立ってAllowance文化について書いてみた次第。

なお、筆者は民間企業に所属するが、例えば病院の職員を集めて新しい製品導入のためのレクチャーをする時などで、Allowanceを求められるケースも存在する(もちろん、病院サイドからレクチャーの依頼がある時などは、Allowanceは出さないが)。とは言え、民間企業として消費者(裨益者?)に関わる場合は、Allowanceをいくら払おうが、製品・サービスを使ってもらい、最終的に利益を得られれば「勝ち」であるし「持続可能」であるので、援助機関に比べてだいぶ話はシンプルだなあと思う。こちらとしては、「負け」ないように、Allowanceを上手に使うのみ!(※決して賄賂という意味ではなく)

※Allowance問題に限らずこうした「援助の現場の矛盾」に興味がある方は、いつもTwitterでも書いていますが、伊勢崎賢治先生の『NGOとは何か―現場からの声』が(少し古いですが)非常に勉強になります。是非手に取ってみてください。あと、先月出版された伊勢崎先生の半生の書下ろしである『紛争解決人 世界の果てでテロリストと闘う』(Kindle版はこちら)も、シエラレオネのプラン時代のエピソードが豊富で面白かったです。

※※記述の所々で「アフリカでは」と書いていますが、正確には「アフリカのいくつかの国では」です。全てのアフリカの国において、今回のテーマであるAllowance文化の有無を調査した訳ではありません

※※※カバー写真について。やっぱり、「アフリカの子供たちの笑顔が好き!」みたいなモチベーションでは、援助は出来ないよな、と。

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