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5月13日

「暑くなってきたね」と思ってもないのに言ってしまった。そして言ってから、暑くなってきたんだなあ、と思った。思えば、もうとっくに暑くて、夜は汗をかいたりするし、昼は扇風機を回したり、毛布も一枚減らしたし、それでも「暑い」と思っていなかったらしい。どういうことだろう。

転んでできた怪我を理由に泣いたことがある。でも本当は違った。泣きたくない。良し悪しなどないと分かっていても、私は。

夏が近い。

夏だった。
更衣室の夢を見た。狭くて、暑くて、柑橘系の甘い匂いがする。バレーボールが終わった後の更衣室。友人が汗拭きシートをくれた。汗でべたつく肌を撫ぜる。良い匂い。みんな同じ匂いがする、不思議。それを、初夏の匂いだと思った。

体育が苦手だった。苦手だっただけではなくて、嫌いでもあった。最後まで好きになれなかった。
体育が好きではなかったから、私の中で体育館の思い出は特になくて、更衣室も然り。いつのまにか私は私の記憶に順位をつけて、下から順に消していくのですね。当たり前か。

私たちは狭い更衣室で、面倒だなあと思いながら制服に着替えて、甘い匂いのシートで身体を拭いた。だから、次の授業は教室中がたっぷり甘くて、汗拭きシートでしか嗅いだことのないよく分かんない匂いがしていた。嫌いな匂いではなかった。扇風機が回る。下敷きを動かして、友人と風を送り合う。みんな気怠くて、あの子も、あの子も、こっそり寝ていて、私もなんだかぼんやりしていた。とっても良い ぼんやり だった。
夏だった。

夢に見るまで全部忘れていた。眩暈がするくらいむし暑い、夏の更衣室。そんなに嫌いじゃない場所。匂い。忘れることってあるんだなあ。忘れるときは、ちゃんと、しっかり、忘れてしまうんだ。そっか。
体育館ってどんな構造だったっけ。バレー以外になにしたっけ。どんな体操着で、運動会ではどんな競技に出たっけ。あんまり思い出せない。忘れてしまうんだ。やっぱり、普通に、忘れていくんだね。

鮮明に覚えている場所。
図書室、礼拝堂、美術室、教員室。あとは、第二音楽室。場所の記憶は、たまにつらいものがあるけれど、つらいものがあった場所ほど忘れにくい。

私が忘れてしまった体育館を誰かが思い出と呼ぶのだなぁ、と思い、それは素敵なことだと感じた。それなら誰かが忘れてしまった第二音楽室のことを、私は覚えておこうと思う。なるべく。なるべく、ね。

もうすぐ夏だ。夏ですよ。

忘れることも、ふと思い出すこともある。

幼い字で書かれた手紙。手作りのぶたの人形。ルーズリーフの下手くそなきのこの絵。ピカピカのスプーン。こぐまのイラストの手帳。萎れた花の栞。何十枚もの年賀状。映画の半券。仏頂面したあなたと、短い髪した私の写真。きみから貰ったチロルチョコの包み紙、しわくちゃ。誰のものか本当は覚えているけれど、分からないふりしてずっと置いてある赤と青のマグカップ。

自分勝手で傲慢な私は、あなたも覚えているといいな と思っている。ごめんなさい。

きみの文章に触れてそのまま眠ってしまいたいと思う相手がいる。子守唄の代わりに、きみの文章を読んでいたい。

会いたい人がたくさんいるけれど、自粛期間、不思議と心身が良くなった。それでも会いたい人はたくさんいる。


夢で会えたらいいのにな。

夢で会えたらいいのにね。

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