技術は社会が決める?
自然科学が発達し、技術が進化し、世の中は便利になった。
それ自体を否定するつもりはないし、今更便利になった世の中を元に戻そうとしても、なかなか出来るものではないのもその通りだと思う。
ただ、技術は生活を便利にもするが、人々を危険に陥れることもあるので、
それを使う場合は、注意が必要になる。
代表的な例としては、ノーベル賞で有名なノーベルが発明したダイナマイトだ。
工事現場で使えば作業を効率化することができるが、軍事目的でも使われると被害が出る。
また、色々な技術の中で、どれを使うか、使わないかを決めているのは、社会の在り方だという
「利用可能な技術のうち、どの技術が用いられ、どの技術が用いられないかを決めているのは、その社会の在り方なのです」[1]
時計も江戸時代の日本では、技術はあったが、広く使われなかったのは、社会が必要としていなかった ということだ。
確かに、工場や会社などで、一斉に作業を始めたりすることがなければ、
正確な時刻は必要ないだろう。一刻(2時間)や半刻(1時間)、四半刻(30分)という単位で十分だろう。
原子力はどうだろう?
この国の社会として、エネルギー源として使い続けることをどう考えればいいのだろう?
今までは、化石燃料や資源が少ないことを理由にエネルギー源として使うことを是としていたけど、
福島の廃炉には何十年かかるか分からないし、
使用済み核燃料(いわゆる核のゴミ)の最終処分場は場所も決められない。
それでもなかなか使うことをやめることが出来ない。
一つには、代替のエネルギー源をどうするか?という課題がある。
人口減少社会とはいえ、今の暮らしを維持したまま、化石燃料と自然エネルギーだけで賄えるのか?
解決すべき課題は多い。
だけど、この国の社会として、
どういう暮らしをするために、
どのくらいのエネルギーが必要で、
それを賄うためのエネルギー源はこうしていこう
とか、
自然エネルギーと最低限の化石燃料で暮らすためのエネルギーはこれだけだから、
こういう暮らし方をしていこう
とか、
をそろそろ皆で考えて決めていく必要があると思う。
「利用可能な技術のうち、どの技術が用いられ、どの技術が用いられないかを決めているのは、その社会の在り方なのです」[1]
結局どういう社会にしていきたいか、は、どう生きたいか?という問いなのだと 改めて思わされました。
[1] ポストコロナ期を生きるきみたちへ 内田樹編 白井聡 等著
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