『臨床現場に活かす哲学的思考』を読んで

 『臨床現場に活かす哲学的思考』(奥村茉莉子・池山稔美編著、金剛出版、2022年)を読んで思ったこと。

 本書は、「はじめに」と「おわりに」を除いて全7章で構成され、6名が執筆している。そのなかの第7章のある記述から少し考えてみたい。

 『会社とか上司部下というのは、実は固有の実体をもったものではなくて自分を含めた社会の約束事だ。同じ虚構を信じることによって実体としているにすぎない。』(p209)

 なるほど。仰るとおり。会社は実在しない。目には見えない。目には見えないが存在し、現代社会では不可欠と言える。司法書士的には、その概念を登記して法的に成立させるのが我々の仕事で、社会的には登記されることによって存在していることになるんだよねということだ。

 面白い。会社は、人間が創出した「概念」でしかないのだ。(同書では『意味の世界』という表現が用いられているが、ここでは「概念」とする。)いつの時代か、人間がその概念を必要とし、創られたに過ぎない。

 そうすると、「いい企業に入りましたね」は「いい概念に入りましたね」だし、「あそこはブラック企業だよ」は「あそこはブラック概念だよ」ということになる。

 もちろん、ひとつの概念(=会社)の存在によって、社会が大きく変わることがある。より正確に言えば、誰かにとって有益なことを概念(=会社)が世に広めることがあると言えるだろうし、あなたにも好きな概念(=会社)があると思う(例えばスマホの・・、例えばパソコンの・・etc)。
 この概念(=会社)というのは、もともと人間が良かれと思って考えたものなのだから、その存在によって我々は恩恵を受けるべきだ。新技術の体験、味わったことのない体験、誰もが欲しいと思っていた物の供給、給料の取得などなど。様々な恩恵がある。

 一方で、この概念(=会社)の存在によって苦しめられたり、ときには命を奪われたりする事実がある。他者の昇進という事象への嫉妬だったり、自らの左遷という事象だったり、過労死だ。

 これはおかしい。我々は我々が苦しむためにこの概念を創り出したわけではないはずだ。それなのに、概念によって精神を病む者がいれば、過労死をする者もいるのはどういうことか。もともとこの概念(=会社)というのは、恩恵とともに害悪も発生する諸刃の剣だったのだろうか。もし、そうであるならば、こんなにこの概念が広まることはなかったであろう。司法書士目線で言えば、こんなに簡単にこの概念を成立させるような法律であってはならないはずだ。

 一体、どこに理由があるのか。わからない。我々はどこかで間違ってしまったのだろうか。いや、間違えてなどいないのだろうか。

 でも、概念(=会社)の存在によって苦しんでいる人は確実に存在する。
 もし、そのような人を見かけたら「その概念は自分の人生から排除したらいい」とアドバイスをするべきだろうか。「『いい企業』『大きい企業』『有名な企業』なんて所詮、実在しない単なる概念なわけだし、その概念によって苦しんでいるのであれば、早く捨てちゃって」とアドバイスをすべきだろうか。

 「お前に言われなくても逃げられるものなら逃げている。」
 
 そんな声が聞こえて来そうだ。当事者は、「地元にはこの概念(=会社)しかない」とか、「この概念(=会社)から抜け出したら他の概念(=概念)に入れるかわからない」とか、簡単ではない何かを抱えているかもしれない。軽々にモノは言えない。

 ただ、登記によって概念を成立させる仕事をしている人間からすると、やっぱり言いたい。言わせてほしい。

 我々は、そんな概念を創る手伝いをしたつもりはないし、するつもりもない。他にも概念(=会社)はあるし、所詮は実存しない概念でしかない。我々が成立を手伝った概念(=会社)によって誰かが苦しむことなど、我々は望まない。少なくとも私は望まない。全力で、逃げてほしい。そんな概念はいらない。迷わず逃げて。

 と、考えたところで「法律」に発想を飛ばしてみる。人類は、なぜ、法律を作ったのか。

 我々を縛るためか?違うだろう。我々個人の権利や自由を守るため、社会がより良いものになるため、そのような目的を持っているはずだ。もちろん、我々が縛られていると感じる場面はあるかもしれない。しかし、そこが主目的であってはならない。縛られるべきは、我々の権利や自由を脅かす存在、社会を脅かす存在であるべきだ。

 具体的な話をしよう。
 例えば、成年後見制度。これは本人の財産を縛る制度ではない。本人の権利や自由を守るために存在する制度であることを忘れてはならないと自戒を込める。細かな支出、例えば本人の日々の買物にまで後見人がレシートをチェックする必要はない。チェックするとすれば、同じ物を買い過ぎていないかなど、確認のためだけに限られるだろう。本人から、あーしたい、こーしたいと希望が出れば、全力でその実現を模索することが後見人の仕事のはずだ。収支を整えることが仕事ではないし、無理やり黒字にすべきことでもないと考える。


 「あとがき」にもう一つ面白い記述があった。

 『国家資格はこの専門性が社会に作用点として機能する』(p234)

 この言葉の原典はニーチェの一説らしい。これを読んで思ったのは、力点・支点・作用点の話だ。書籍では、国家資格者は作用点と読んでしまいそうになるが、支点と考える方が適切だと思う。例えば、「新しい会社を創るぞ!」と思った人は力点で、資格者は支点だ。力点だけで作用点を起動させるのは難しいところ、支点があることによって、作用点がスムーズに起動する。つまり、会社がスムーズに成立する。テコをイメージすればわかりやすい。力点である本人がパワフルに動けるのであれば支点の大きさも位置も気にすることはないだろう。しかし、力点が弱いものであれば支点の大きさや位置がものをいう。力点と作用点を見極めて最もスムーズに動かせる支点としての存在、それが国家資格者ではないだろうかと考える。

 お前がいたからスムーズだった。
 願わくば、そういうものに私はなりたい。




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