『レジリエントに生きたい』を読んで 

 「レジリエントに生きたい」(古橋清二著、民事法研究会、2022年)を読んで思ったことです。

1 書籍のこと

 著者は、「司法書士としての経験やノウハウ、魂みたいなものを次の世代の人たちに伝えるために」原稿を準備していたらしく、その内容は「一口で言えば、24時間、神経を過敏にして依頼者、社会のために尽くせ」というものを予定していたそうです。

 しかし、癌を宣告され、癌になった原因を自らのハードな執務姿勢にあると分析したことから同じような生き方を勧めるわけにもいかなくなりました。それでも「次の世代の司法書士に遺してあげたいというお節介な気持ちから」「『うざい』と批判されるのは承知のうえで」書いたと、はしがきにあります。 

 簡単に言えば、大病を患ったベテラン司法書士が、30年以上の司法書士人生を振り返りつつ、現在の心境と後輩への叱咤の思いを綴った本ということです。

 ありがたい限りです。
 お節介どころか、貴重なアドバイスです。

 熱く語れば、それを揶揄する人間が存在することは、誰しもが承知していることと思います。著者はそれを「『うざい』と批判されるのは承知のうえで」と表現したのでしょう。そのうえで、どこかの誰かに届けばよい、届いてくれ、という想いで出版されたのだと理解しました。
 自らの想いを貫いた、いわば信念を持った行動です。


2 信念のこと

 信念。
 いつの頃からか、私は信念を持っている人に魅かれるようになりました。

 おそらく40歳の頃だったと思います。自らが40歳を過ぎ、論語の「四十にして惑わず」という言葉について考えてみました。果たして自分は「惑う」者なのか「惑わない」者なのか。ちょうど40歳で司法書士試験に合格し、どういう仕事をしようかと考える時期でもあったように思います。

 私がやりたいと思う「成年後見」については、ネガティブな報道を目にすることもありました。そもそも司法書士は歴史的に見ても登記をメイン業務にしてきた資格であり、実際に多くの司法書士がそうしているなかで、40にして手に入れた資格を基に自分は他とは違う使い方をしようとしているのではないか。本当にそれでいいのか。うまくいくのか。考えました。

 何度も自問し、そのたびに、この仕事には価値があり社会に必要な仕事であると自答しました。そこを主業務と考えて動き、もしうまくいかなければ、その時に考えればいい。自分がやりたいこと、やるべきこと、価値があると信じること、信念を持ってやろうと結論づけました。惑わずに。

 考えてみれば、国民が制度に改善すべき点があると判断すれば、その主権に基づいて、選挙権を行使し、立法府を通して改正されるだけなので、一人の司法書士が思い悩むことでもありません。できることは、そのときの法律を駆使して目の前の課題に対峙することだと考えました。


3 原動力のこと

 自分の中にある後見業務への原動力は、小学校時代にあるのかもしれません。私が通っていた小学校は、特別支援学級のある学校でした。だからなのかはわかりませんが、多くのクラスに少し障害のある子がいました。その子らと、一緒に授業を受け、一緒に行事に参加していたのです。今にして思えばインクルーシブ教育というものが行われていたのだと思います(もちろん当時はそんな言葉は知りませんでしたが)。

 さて、一緒に授業を受け、一緒に行事に参加するとどうなるでしょうか。
 端的に言ってしまえば、一緒にいることが当たり前になります。障害は、単なる個性の一つでしかなくなり、そういう個性を持ったクラスメートになります。足の速いやつ、頭のいいやつ、絵のうまいやつ、優しいやつ、面白いやつ、障害のあるやつ、みんな一緒です。一緒に学び、一緒に遊び、喧嘩をし、笑います。障害をもつ人と接することは日常でした。

 例えば、校庭でサッカーをするとき、障害を持つクラスメートも一緒にサッカーをしました。戦力としては他の子よりも劣りますから、その子がいる方のチームの人数を多くするなど子供たちなりに工夫し、サッカーが楽しいものになるようにしていました。これは、大人に「そうしろ」と言われたことではなく、子供たちが勝手に考えてそうしていたのです。障害者との接し方について、大人になってから頭で考えるより、子供のときに身をもって体験しておくことは、とても有意義なことだと思います。

 大人になって、そのような経験を持たない者がいることに驚きました。接し方がわからないという言葉を耳にした時も驚きました。考えるまでもなく、誰とでも同じように接すればいいだけです。そういった経験を持つ自分は、考えようによっては強みを持っているのではないかとも思えました。

 置かれた環境、発生した出来事によって、それぞれが感じることは様々でしょう。自分の経験をどう活かすかは、他でもない自分次第だと思います。


4 レジリエントに生きよう

 レジリエントという言葉には、「弾力」「柔軟性」「回復力」「強靭さ」などという意味があるそうです。つまり、「レジリエントに生きたい」といえば「柔軟に生きたい」というような意味になるのかなと思いますが、余命宣告を受けた著者にとっては、現状を柔軟に受け入れ、受け入れるばかりか回復までしやろうじゃないか!という意味合いになっているのではないかと思いました。

 そして、その裏に潜む強さは信念にあるのではないかと拝察します。秘めた信念を持つからこそ、その他の出来事に必要以上に落ち込むことなく(もちろん落ち込んだ時間もあると思いますし、現にそのような描写もあります。)、後進へのアドバイスとなる本を出版されるなど、病気を患った今もなお前進されているような気がいたします。

 経験不足の若手には「うまくいかないことがあってもしなやかに生きろ」と、ベテランには「柔軟さを失っていませんか」と、アドバイスをくださっているように思います。

 経験不足の者や新しい分野で仕事をする者がうまくいかないときに頼るべきよすがは自らの「信念」ではないかと思います。この問題を解決したいという信念があれば、批判や逆風をしなやかにかわしながら目的地に辿り着ける、近づくことができると信じます。

 どの分野でもそうだと思いますが、ベテランがいつまでも昔話をしていては「いま」を生きる者に相手にされなくなるでしょう。「いま」起きている問題は何か。「いま」できることは何か。いつの日か自分がベテランと呼ばれる日が来たとき、そのとき自分が関心を持つことについて学ぶことのできる人間でありたいと思いました。できれば、その時の自分が今の自分には想像できないものであってほしいとさえ思います。何に関心を持っているのか楽しみです。


5 まとめ

 私のような登録10年未満の若手も、登録直後の新人も、20年以上のベテランも、依頼者からすれば同じ「司法書士」です。この本は、そのすべての年代に対する古橋先生からのエールだと思います。お会いしたこともありませんが、私にもエールをくださったのだと勝手に思い、自問自答をしながら仕事に取り組みたいと思います。

 心から古橋先生のご快復を願います。
 
 令和4年12月 川のほとりで


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