精神的泥棒の話
人間は難しいものであって、性善説と性悪説がある。
ぼくは産まれたばかりの赤ちゃんを見て、将来人を殺してやろう、騙してやろう、自分を傷付けてやろう、などと思って産まれてくる子は1人もいないと信じたい。
けれども凶悪犯罪などを詳しく調べると後天的なものだけでは少し説明が付かないなと思うこともあって。
現実的には人は善と悪を持ち合わせているのだと思う。勿論ぼくも。
その善と悪のバランスの問題の話題。
基本的に人間関係には利害関係が大きく左右する。
そもそも認めたくはないが、他人を利用し、搾取し、馬鹿にし、軽く扱うことをナチュラルにできるサディストは存在する。もしくはよく見かける。
この本質は、「自分が良ければそれでいい。後はどうなろうと知ったこっちゃない」という醜い心の一部にあると思っている。
これを人間関係に当てはめるとどれだけ自己中心的なことになるか分かるだろうか
勿論この考えは楽だ。後で悲惨な目に遭うかもしれないが。
ぼくは基本的に平和主義なので、人を恨みたくもないし、この記事を書いてる時でさえ心が混沌としている。そういう思いをしたくないだけなのだ。
だからぼくは迎合もしないし、「都合の良い人」にはなりたくない。
自分がそう思われるのも嫌だし、思うのも嫌なんだ。
無意識に「憎しみ」を感じたくない。
感情的に恐喝される、仲間に裏切られる、逃げた人の尻拭いをさせられる、そんなのはごめんだ。
タイトルの精神的泥棒というのは、感情的恐喝とも言い換えることができる。
感情的恐喝とは、
「友達なのに、そんなこともしてくれないの?」というような台詞で相手を追い込んでいくこと。
「お隣同士仲良く」と口では言いながら隣人の家の塀を壊して自分の車が通りやすくすること。
これらを精神的恐喝と解釈している。
別に失うものは小さくても、その心が透けて見えた時、自分の心も意識的か無意識的にかドス黒くなってしまう。それはほぼ無限に積み重なる。
それが嫌なんだ。
人を憎むことも復讐もしたくない。平和に生きたい。
ぼくももしかしたら、殴り殺したいくらい憎たらしい人がいるかもしれない。
しかし、ぼくの周りにいる人はすべてそのようにひどい人たちだろうか。
全く違った正反対の種類の人もいるのではないか。
ぼくの周りには自己中心的で、ずうずうしくて、ずるくて、冷酷な利己主義、そんな卑怯な人たちばかりなんだろうか。そんなことはない。ぼくの周りにいる人達の中には、まったく違った種類の人間もいるはずなのである。だとすれば
「ああ、今自分の周りにいてくれる大切な友人や家族があの人みたいな人間でなくて良かった。」と改めて感謝する。その感謝がぼくを強くするのだ。憎しみや復讐などマイナスな感情に時間を割かずに済む。そういうずるい人間を赦さなくとも、心の中で「断ち切る」ことができる。そのエネルギーになる。
だからぼくは、人に何かを与えられる人間でありたい。貧しい時はちょっとしかあげられなくても「お互い様」といい関係でいられる人と一緒にいたい。
ただそれだけなのである。
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