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【二代目 プリントBOX】

 
自分が思った通りのTシャツを作りたい

20歳から映画サークルのつてで、東映のバイトをやることになった。映画館の受付のお姉さんと仲良くなり、シルクスクリーンでTシャツを作ってるという話を聞いて、わたしもTシャツを作り始めていたので、話が盛り上がった。お姉さんは別途デザインの勉強をしていて、洗練されたオリジナルのTシャツを着ていて眩しかった。大学の生協で3種類くらいTシャツを注文した。今でも覚えているが、3オンスくらいのペラッペラなグリーンのボデーにラバープリントの赤い絵柄。
寮の先輩にあげると、いつも着てて、Tシャツがボロボロになっていた。先輩からもっと着たいんだけど、「ボロボロだよ」と言われて、どうにかできないか?と考えていた。

大江渡鹿のスーパーにいつものように買い物に行ってたら、道中で気になるお店を発見する。「プリントBOX、オリジナルTシャツ作れます」店頭にプリントTシャツが飾ってある。店の引き戸を開けると、おじちゃんが一人だけいた。それが、Nさんとの初めての出会いだった。(これがその後10年以上の付き合いのはじまり)
店に着くなり、今まで生協でTシャツプリントをやっても満足できなくて、どんな感じでプリントできますか?という質問を投げつけて、その全てにNさんは答えてくれた。料金は生協より割高だったけど、この店でTシャツを作りたいと思ったので、また絵柄を持ってきますと約束して、その日は店をあとにした。

翌週、プリントBOXを訪ねた。Nさんは、パソコン作業をしている。最初に依頼したのは、「カマキリが本を読んでいるTシャツ」と「腹話術人形が描かれたTシャツ」
手描きの絵をスキャンして、Nさんに送り、2週間後にTシャツが完成する。Tシャツのボデーはanvil。生協でお願いしていたボデーはノーブランドだったけど、首元のタグがかっこよかった。Nさんが、anvilはアメリカ的でざっくりして、首元がよれてくるけど人気があるブランドだよ。と教えてくれた。それぞれ、3枚ずつ注文して、1枚は自分用に残りは映画館のお姉さんにプレゼントした。お姉さんに「このプリントはシルクスクリーンじゃないね。どうやって作ったの?」と質問されて「渡鹿の店でお願いしたんです」と答えることしかできなかった。でも、お姉さんはとても喜んでくれた。(あとあとになって、ダイレクトインクジェットプリント工法で作ったということが判明する。)

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anvilのTシャツを毎日着ていると、なるほど首回りが確かにヨレヨレになった。別の素材も試したくなった。

ある日、Nさんに違う種類のボデーの持ち込みとかできますか?と質問すると、「いいよ。プリント代だけで見積もり出せるから、好きなの買っておいで」と言われた。折角だからと、Tシャツ無地通販サイトを見漁って色んな種類のTシャツを買ってみた。FRUIT OF THE LOOMというタグがフルーツ盛りみたいなTシャツがあって、バンドは別に好きでもなかったが絵柄が良くて購入したWeezerのバンドTシャツも同じタグだった。Tシャツのボデーがこの値段で、売値がこの値段。Tシャツって儲けるんだな。などと思った瞬間だった。

就職で熊本から愛知に引っ越した後もNさんとの付き合いは続いた。同じ熊本の桃成生活研究所でTシャツを販売していたこともあって、通販でTシャツを仕入れて、Nさんにデータを入稿し、Tシャツを熊本に送り、プリントしてもらって、愛知に送ってもらう。年3回以上は熊本に行ってたので、桃成に持ち込むということを4年くらい続けていた。(今考えても愛知→熊本→愛知→熊本と無駄が多すぎるのだが、思い返すとそれが「こだわり」だったのだろうか… 俺)プリントBOXのプリントも変化していて、当初はダイレクトインクジェットプリントでプリントしていたが、インクの仕様が変わったようで、本体と合わなくなったらしい。それで、ダイレクトインクジェットは止めにして、代わりにカッティングシートを使ってプリントすることになった。確かに、工法が変わると仕上がりが丸っと変わった。ダイレクトインクジェットは濃いボデーには不向きといっていたが、カッティングはボデーの色を気にしなくても良いという大きな利点があった。

その後、行きつけの居酒屋のオリジナルTシャツを勝手に作って勝手にあげたりしてたら、行きつけのバーKEITHのコウスケさんから、うちの店の周年Tシャツ作ってよ。という依頼を受ける。しかも30枚。しかもレディースも。この辺になると自分でフォントとかも作りたくなって、イラストレータを購入していた。Nさんにいつもように入稿して、Tシャツが出来上がる。カッティグシートを導入し始めた時期で、ダイレクトインクジェットとカッティングが混在した面白いTシャツができた。出来上がったものをKEITHに納品したら無茶苦茶喜んでくれた。NさんからくるTシャツにはいつもオマケがついていた。KEITHの時には同じロゴがトートバッグにプリントされていた。「オマケありがとうございます。」とNさんに伝えると「お安い御用!」と返ってきた。今思い返してもNさんは超絶器用だったのだと思う。Nさんには、Tシャツを送る際にお手紙を同封したが、その絵をビールグラスに彫ったものをくれたりとか、サプライズが過ぎてサイコウだった。

ある日、Nさんから体調が良くないんだというメールがきて、心配しながら店を訪れた。Nさんは、静かに口を開いて、自分にあったことを話してくれた。脳梗塞で倒れたそうだ。「手が痺れるのと、上手く喋れないんだ。上手く喋れないのが恥ずかしいよ。」と話していた。そして、倒れた日に気が付いたらトイレをピカピカにしていた。という話をしていた。この、Nさんが無心でトイレを何時間も磨く話が強烈に残っている。しばらくすると、口の麻痺も薄らいできたNさんは面白いことを始める。店を喫茶店ぽくフリースペースにして、旨いコーヒーを淹れる。喫茶店兼プリント屋に大改造するというのだ。ただでさえ居心地が良い居場所がますます快適になった。ある日、週刊ラズベリーのTシャツとか絵とかを展示していいっすか?と質問したら、快諾してくれて、熊本に行く日に合わせて展示会が決まった。展示会の前日、KEITHに行って常連さんにチラシを配りまくった。あと、下通りでばったり会った先輩にもチラシを渡した。

写真はNさんお手製の手料理(どれも旨かった)

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当日、ゆるーくスタートして、Nさんとお客さん来ませんね。とか言ってたら、散歩に来たおじいちゃんが「なんかありよんのですか?」などと展示を不思議そうに見ていった。結局、お客さんは20人くらい来てくれて、Tシャツ作るキッカケになった映画館のお姉さんやKEITHのコウスケさん、KEITHでチラシ配った常連さん、下通でばったりあった先輩も来てくれて、のちに結婚する彼女も連れてきてくれて良い展示になった。先輩がギターを弾きだして、一緒に歌うというオマケつきでNさんにありがとうございます。と告げて熊本を後にした。

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その2年後、店を訪れると「実は店を閉めようと思うんだ」とプリントBOXは突然の閉店を迎える。ショックだったけど店舗を構えるということは家賃がかかるし、やはり健康に対する不安があったようだ。Nさんは、今所有している機材一式を譲って欲しいという知り合いがいて、という話をする中で、「君に譲りたいと思ってるんだ」というビックリする話が出てきた。もちろん、タダではないんだけど、という前置きがあった上で「どう?」とNさんに聞かれて、「えぇ、是非」と即答していた。

ちょうどタイミングが良かった。結婚して、熊本に住む妻の車を愛知までフェリーを使って運ぶという時期でNさん宅に行って、機材一式を引き取りに行った。そして、こうやってカッティングして、こうやってプレスするんだよ。と教えてくれた。(30分くらい)
実は、作るところを見たのはこれが初めてで、とても興奮した。妻も横で見ながら、「思ってたより、機械って大きいのね」などと言いながら、レクチャーを終える。(当然、30分のレクチャーで上手くというはずはなく、その後、何度となくNさんに連絡して、通信できません。シートが変になります。などとノウハウを聞きまくることになるのだが。。。)

これがわたしの家に業務用カッティングプロッターとプレス機がある理由。Nさんも「こいつ商売には使わないな」と分かってて、今年のお正月に久しぶりにNさんに連絡して、Nさんにだけ伝わるようにnote作って送ったら、「変わりなく、好きなもの作ってていいね」と言ってくれた。Tシャツを作り続ける動機は色々あるけど、一つはプリントBOXが閉店したことが悔しくて、それに反抗したいという気持ちが強い。今は、メルカリで売りまくって、プリントBOXを継いで、商売してますよ、予想外でしょ。とNさんをビックリさせるのを目標にしている。

つづく

~以下、1年前に書いた文章に加筆~

自身の病気(負の出来事)に対してナニクソ!と逆方向の力に変えて、喫茶店を始めてしまったNさんの行動力に勇気をもらえるし、俺も負けてられんと思う。オリンピックはやるし、自粛はしっかりしてもらうという国の方針にうんざりもするが、思いがけない力が出るわけなく目の前に並べたことを再構築するしかない。有難いことにTシャツ関係や音源の感想で依頼をいただいているので一つずつこなしていこう。

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