『脳と時間』(ディーン・ブオノマーノ著、村上郁也訳) 【訳者あとがき公開】
2018年10月発行、『脳と時間:神経科学と物理学で解き明かす〈時間〉の謎』の訳者、村上郁也氏による「あとがき」の公開です。
『脳と時間』訳者あとがき
著:村上郁也
「時間とは何か?」これほど、答えが明らかに感じられながら本当に答えようとするとつかみどころなくぬらぬらと擦り抜けていく問いも、なかなかお目にかかるものではありません。意識とは何か? 自己とは何か? 現世とは? 物質とは? 人類文明の黎明期から現代に至るまで膨大な知的資源が投入されてきてなお完全には解けないこうした問いがあるからこそ、学問とは奥が深いのだと感じられます。解けないから面白い。
時間なんて、アーティスティックスイミングを観戦していて選手間のシンクロが微妙にずれたのに気づいたり、対向車の鳴らすクラクションが何秒続いたかわかったり、床に就いて部屋の電気を消してから何分経過したのか見積もれたり、あの事件が起きた後でこの事件が起きたと思い出せたり、この定期預金が満期になったときの自分の未来が想像できたりといったように、常日ごろいとも簡単に把握できているような気がします。だから、時間とは何かを問われても、「だってこうやってありありと感じたり思い描いたりできるじゃないか、どこに不思議があるというのか?」といぶかるかもしれません。
この、いぶかしい気持ちを覚えるという点では、私たちの空間把握の問題と似ているところがあるでしょう。視覚正常であれば、私たちは眼前に見晴るかす悠然たる風景をさも当然のものであるかのように常日ごろ楽しんでおり、すべてをいとも簡単に把握できている気がします。あたかも、自分の前に開けている三次元世界そのものを見ているかのように。そんなとき、わざわざ「視覚とは何か?」と問われても、「だって目の前に見えているじゃないか、どこに不思議があるというのか?」と反論したくなるでしょう。ところが、私たちが見ていると思っている視覚世界とは、結局のところ、脳の造り上げた幻影あるいは錯覚のようなものなのです(第4章「メタ錯覚」を参照)。脳というコンピュータが合成した像なので、言ってみれば、コンピュータグラフィクス(CG)。扱いやすい絵柄で世界の様子をユーザーである自分自身に提示してくれるという意味では、グラフィカルユーザーインタフェース(GUI)という言い方でもいいでしょう。外の世界の様子をできるだけ臨場感高く示しているという意味では、仮想現実(VR)と呼んでもよさそうです。
何でもいいですが、そのCGだかGUIだかVRだかがたまたまとてつもなく高性能な生成のされ方をして、外の世界に実際にある事物を私たちが生きていくうえで最も使い勝手のよい記述形態で心の上に映し出してくれるがゆえに、まるで私たちがそうと感じるつやを実際にもち私たちがそうと感じる鮮やかな赤色を実際にもった事物であるかのような記述形態で、たとえば「つやつやした真っ赤なイチゴ」なる視覚像が眼前に差し出されているというわけです。色なんていうものは物理的世界には存在しないのに(第9章)。そしてそのイチゴとそれを取り巻く事物、イチゴ畑やビニールハウス、その外の農道といった風景の遠近感は、何種類もの奥行き手がかりを駆使して計算した結果、最もありそうな奥行き関係が推定されたものとして心の上に提供されるわけです。数学的には解けないのに。(なぜ解けないかというと、入力信号である網膜像は面であり、二次元なので、奥行き次元の情報が最初から失われており、奥行き方向の解が不定になるから。でも解が不定になったままの視覚世界は使い勝手がものすごく悪い。もっと言えば、眼の動きに伴って網膜に映る像はずれていきますが、視野全体がそのつどいちいちずれていたらやっぱり使いものにならない。だから、たとえ網膜像が二次元でも、またたとえ眼が動くと網膜像がずれても、あくまで本当に見たいものを見るというか見ていることにした結果が、私たちが見ていると思っている視覚世界の正体となるわけです。)だから幻影と言えるのですが、それはとりもなおさず脳の資源の粋を結集して外の世界の様子を探ろうと最大限に努力した結果の幻影であって、私たちがこの世の中で生きていくためのアシストをするという目的のためにはじゅうぶん正しい視覚世界が見えていることにもなるのです。聴覚しかり。触覚しかり。
時間も同様です。私たちがありありと時間の流れを感じたり、早口で語られるアナウンサーの朗読を正しい語順で追うことができたり、過去から未来にかけて――少なくとも自分が誕生してから寿命を迎えるであろう日まで――連綿と月日が続いていたし、続いていくだろう、という認識をもったりすることは、そうすることがおそらく生存にとって有利だからということで進化の果てに培われたのでしょう。私たちが時間の流れを感じると言うとき、それは物理的な時間ではありえません。何しろ、時間はエネルギーや物質ですらないからです。視覚を生むための光のエネルギー、聴覚を生むための音波のエネルギー、触覚を生むための圧力のエネルギー、身体の平衡の感じを生むための慣性力のエネルギー、嗅覚・味覚を生むための化学分子、といったように、何らかの実体をもった感覚入力があるからこそ神経系はそれらを生体信号に変換することができるのであって、変換可能な物理的実体のない――いまだ物理学で定義することに成功していない――何物かを、生体信号に変換してくれるような感覚器官は存在しえません。
とはいえ、時間方向なるものが存在すると仮定して、時々刻々変化する光や音や圧力の時系列なるものをその時間軸上に物理的に定義できることにすれば、視覚や聴覚や触覚のシステムを介してそうした外界のエネルギーの時系列を生体信号に変換できることにはなります。だとしても、物理的な時間軸上の系列をそのまま認識することにはなりません。神経系は外の世界の時系列を映画撮影フィルムやマイクのようなものを使ってそのまま写し取って脳内に再現しているのでなく、自分のシステム内部で使いやすいような形式に書き換えています。これをコーディング(符号化)と言います。
コーディングを行って多段階の情報処理を経ることで、大きく分けて三種類のことが生じます。まず、物理的な時系列に比べて、外の世界の出来事をきっかけに脳内で生物学的な出来事――神経活性化パターン――が生じるのには、必ず時間遅れを伴います。次に、外の世界の時系列と脳の中の活性化パターンの時系列とは、書き換えの結果として似ても似つかないものになります。さらに、そうした脳内の状態を使って、外の世界の様子を心の上に展開するという目的を果たすために、何とかして――どうやって行われているかは今もって不明ですが――幻影としての時間の「感じ」が合成されます。この世界を生きていくために都合のよい記述形態としての時間の「感じ」が心の上に生み出されるのです。その「感じ」はあまりに滑らかで違和感ないものであり――神経的な時間遅れをものともせずに精密なタイミングで相手ボクサーの繰り出すパンチを避けることができたり、文末の語を聞き取って初めて文頭の語の意味がわかったはずなのにあらかじめわかっていたかのように感じたり、「皮膚ウサギ錯覚」(第12章で出てきます)と呼ばれる時間遡行的な錯覚現象が生じたりします。私たちの感じる時間とは、CGだかGUIだかVRだかの上に表現された、「そんな気がする」ものに過ぎず、しかしそのありありとした「感じ」を心にもつことが、生きていくために必須なのであるからこそ、脳が今この瞬間にも懸命になってそうした表現を紡ぎ出しているのです。
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著者ディーン・ブオノマーノは、こうした脳内の時間のコーディングのあり方を解明することをライフワークとしている最前線の研究者で、理論的な計算神経科学、生体標本を扱う神経生理学、ヒトその他の動物の行動を扱う心理物理学のすべてに通暁しています。「状態依存ネットワーク」(第6章)というモデルが彼自身の研究の特徴をよく表しており、これは脳内の計算を神経的なダイナミクス(力学、動態)の考え方で解明しようというものです。ギリシア哲学者のヘラクレイトスは、「最初に川に入ったときと二度目に川に入ったときとで川の流れは違うので、あなたは同じ川に二度入ることはできない」と言いました。また、鴨長明は『方丈記』で、「行く川のながれは絶えずして、しかも本(もと)の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。」と書いています。神経ネットワークを動的な存在として考えるというのは、いわばこうした川の流れのようなものが脳の中にもあるという考え方です。直前の過去に生じた神経活性化パターンがどうであるかに依存して、現在の入力信号がどのようにコーディングされるかが変わるとか、神経ネットワークの相互結合のせいで「共鳴」のような出来事が一定時間持続するであるとか、あたかも池の水面に広がる波紋の織りなす時間変化パターンのように、神経ネットワークの活動の時間変化パターン――「神経軌跡」――によって有意味な情報表現がなされており、時間を表す仕組みはそうしたネットワークに属している膨大な数の神経細胞――「集団時計」――によって成り立っているのだ、とする立場です。
こう言っただけで終われば単なる脳科学の一般的な話になりますが、ブオノマーノ教授のすごいところは、この動的な仕組みというものを精緻な計算シミュレーションや神経生理学実験で実証し、そこから予測されるヒトや動物の行動を心理物理学実験で検証するといったように、時間認識の実証研究の最先端を走っていることです。その研究成果は『Science』誌や『Nature』姉妹誌、『米国科学アカデミー紀要(PNAS)』といったいわゆる高インパクト論文誌に多数掲載され、世界の脳科学・認知科学に多大な影響を与え続けています。ブオノマーノ教授のこうした功績と並んで、21世紀にあってますます実証研究の技術革新が世界的に進んだことをも契機としてか、ここ数年のうちに時間認識の科学的解明に向けての実証研究の件数が加速度的に増加してきました。
たとえば2013年には計時と時間認識に関する専門論文誌である『Timing & Time Perception』誌が創刊され、計時と時間認識に関する国際シンポジウムとしては2016年に『Time in Tokyo』が東京で、また2017年には第1回『Timing Research Forum』がフランスのストラスブールで開催され、2019年には第2回がメキシコのケレタロで開催予定です。2018年には国際オープンアクセス誌『Frontiers in Psychology』で「こころの時間学と時間知覚実験」という特集号が刊行されています。ちなみに、我が国では文部科学省新学術領域研究「こころの時間学―現在・過去・未来の起源を求めて―」という枠組みで研究グループが組まれ、その分野横断的研究活動の成果として、2018年までの5カ年で400件近くの国際論文が出されました。2018年からの5カ年計画では、文部科学省新学術領域研究「時間生成学―時を生み出すこころの仕組み」という枠組みで、再び強力な研究グループが組まれて時間研究が加速していくことになっています。本書の内容と完全にオーバーラップしている視座をもったこれらの科学研究チームに私自身も参画しており、多重時計原理(第3、5章)、齧歯類のリプレイ軌跡(第4章)、鳴鳥のリズム生成(第5章)、時間の実在性(第8章)、時間と時制(第10章)、心的時間旅行(第11章)、時間の神経相関(第12章)といった分野に通じた専門家と勉強会を行いつつ、相互に連携した研究チームとして一丸となり、こころの時間の解明に挑んでいるところです。
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本書をまだ通読していない方のために、少しだけ内容を紹介することにします。著者の専門性に最も近いのが第5章と第6章で、そこでは脳内で時間を把握するための仕組み――多重時計原理、同期発火連鎖、短期的シナプス可塑性、神経軌跡、集団時計、カオス、ニューラルネット――が研究者モードで熱く語られています。それらを一定の頂きとしながらも、本書の各所では時間にまつわるさまざまなトピックスがわかりやすく紹介されています。第1章では、時間に関して人々の行ってきた論考を概括し、現在主義――現在のみが実在し、過去も未来も存在しない――という立場と、永遠主義――時間で言う「今」とは空間で言う「ここ」のことで、縦・横・高さの三次元に加えて四次元目の時間軸が張られた四次元空間のブロック宇宙に私たちは暮らす――という立場が最初に紹介されます。第2章では、ヒトその他の生物にとって時間とはどのように把握されているのかについて、さまざまな時間スケールにわたって概説され、第3章では、いわゆる時間生物学の核心部分である、概日リズムを刻む生物時計に関する話題が語られます。第4章では、感覚器官がないのに生じる時間の感覚というものが若干の奇怪さを帯びていることが章タイトルで示唆され、心的な時間が伸びたり縮んだりして感じられる不思議な現象が多数紹介されます。飛んで第7章から少しの間は、時間の心的側面でない部分に目が向けられ、第7章では時間を刻む工芸品である時計の歴史にまつわる蘊蓄(うんちく)が披露されます。第8章では、物理学において時間というものの立ち位置がけっこう面倒であること、少なくとも古典力学では時間方向が一方向に定まらないことが論じられ、第9章ではついにアインシュタインの相対性理論が導入されて、光の速度が絶対であることの代償として空間ならびに時間がいずれも物理的に伸び縮みしうることが、超高速で進む列車の思考実験とともに説かれます。第10章では、相対性理論と相性のよい永遠主義のブロック宇宙という世界観が、神経科学や心理学の世界とどれだけ相性がよいか悪いか、多数の研究例とともに議論され、第11章ではヒトが自在に発揮できる(また、限定的ながら一部の動物が有していると言われる)心的時間旅行という能力とはいったい何か、その能力をもつことの進化的優位性とは何か、が論じられます。最終の第12章では、物理的な時間と神経的な時間と意識的気づきの上での時間の間にある複雑玄妙な関係について、そもそも意識とは何か、自由意思とは何かという重大な哲学的問題をからめながらまとめあげられ、著者の熱いメッセージとともに本書は閉じられます。
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本書は、実証科学の現場の人間という研究者マインドをもった著者が、膨大な科学論文を丁寧に精査して、言えることと言えないことを正しく峻別して言葉を選びながら、それと同時に、じゅうぶんな予備知識をもたないであろう一般読者の視線としっかり向き合って、可能な限りわかりやすくそして科学的に正しい筆致で、随所にクールなユーモアを交えつつ、研究知見を解き明かすというスタイルを一貫してとっていて、そのことが何より素晴らしいと思います。そして必ずしも自分の専門分野ではないはずの多数の分野にわたっての著者の該博な知識といったら本当に恐ろしいまでで、この人はまったくもって時間のことを調べ尽くすのが大好きなのだなと思わせます。「楽しい時間は早く過ぎる」とよく言われますが、私としては、一気に読了した原書の読後感がまさにそうであり、翻訳作業完了後の感慨もまさに同様でした。読者の皆さんにもその思いを共有していただくべく、可能な限りブオノマーノ教授の人柄に憑依(ひょうい)して日本語化したつもりです。ちなみに、著者が本書を出す前に刊行した書籍『Brain Bugs: How the Brain’s Flaws Shape Our Lives』がすでに邦訳されています(柴田裕之 訳 『バグる脳│脳はけっこう頭が悪い』(2012)河出書房新社)。
実はこれには(本書巻末註に言及があるように)本書の中身のごく一部が少しだけかぶって載っているのですが、時間認識に関する話題以外の方がむしろたくさん載っていて、私たちの脳や思考の様式がいかに独特であるかが、さまざまな科学的事例をちりばめてわかりやすく紹介されています。また、「Dean Buonomano」を検索ワードに入れてYouTube の検索をかけるとけっこうな件数の、一般視聴者向けに作られたと思われる平易な解説のビデオクリップがヒットしますので、著者の人柄を知りたい方は併せて視聴されてみることをお薦めします。
出典:『脳と時間』訳者あとがき
村上郁也(むらかみ・いくや)
東京大学大学院人文社会系研究科教授。ヒトを対象とした視覚心理物理学、特に主観的現在での時間知覚が専門。編著書に『イラストレクチャー認知神経科学―心理学と脳科学が解くこころの仕組み―』(オーム社,2010)、『心理学研究法1 感覚・知覚』(誠信書房,2011)、訳書に『カラー版 マイヤーズ 心理学』(西村書店,2015)がある。
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『脳と時間:神経科学と物理学で解き明かす〈時間〉の謎』
古代から人類が頭を悩ませてきた「時間」という謎。近年、神経科学や認知科学では、脳と時間の関係についての理解が急速に深まっている。ヒトや実験動物で行われる多彩な研究で見えてくるのは、脳は時間をさまざまに処理する装置であること、つまりは精巧な「タイム・マシン」としての脳だ。本書では、「時間」にまつわる脳研究の第一人者が、最新の研究成果を概観しつつ、哲学や物理学の議論も参照しながら、脳科学が時間について明らかにしてきたことを描き出す。脳は時間をどう処理しているのか? 脳科学は、古来からの「時間観」をいかに揺さぶり、そのアップデートを迫るのか?
――人類史上最難関の謎に、全方位から挑んだ意欲作!
【目次】
第1部 脳の時間
1.時間の特色
2.タイムマシンとして最高の逸品
3.昼も夜も
4.シックス・センス
5.時間におけるパターン
6.時間、神経ダイナミクス、カオス
第2部 物理の時間の本質と心の時間の本質
7.時間を管理する
8.時間とはいったい何物か?
9.物理学における時間の空間化
10.神経科学における時間の空間化
11.心的時間旅行
12.意識:過去と未来との結びつけ
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