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#615 機会は平等

現代ほど、機会が平等に与えられている時代はないのかもしれない。

身分や男女の違い、出自などを理由に差別されることもずいぶん少なくなっただろう。男女については「区別」の部分について解釈が曖昧になってきていることで新たな問題も出始めているが、それについては今回の主題ではないので取り扱わない。

「~でなければならない」がほとんどなくなった。何を経験し、何を学び、どこで過ごすか、そしてどのような知識・情報を得るか、それにアクセスするか。これほどまでに機会が平等になった今、個人の身分や出自などでスタートラインから差がつくということも、ゼロではないがほぼそれに近づいたと言ってもいい。

であれば、どこで差がつくのか、差をつけるのか。

平等なのは機会と時間だけであって、社会全体だけでなく大小さまざまなコミュニティ内においても秀でて前を走る人とその後に続く人、あるいは大きく遅れてしまう人が必ず発生する。残酷だが、これは現実だ。

「学問のすすめ」の福沢諭吉はこう述べている。

学んだ人にはそれに応じた学んだ人生が、学ばなかった人にはそれに応じた人生が、しっかりと準備されている。ああ、なんと平等であることか

差がつく、差をつけるのは学び、それも実践的学びであるという。

僕の主催するソフトテニス練習会は、一人当たり500円の参加費となっている。直近の練習会では参加者が11名だった。11名が3つのグループに分かれて同じ練習をしている中で、僕はそれを巡回していって適宜アドバイスなどを行う。その際に、知識や技術を学んで得る意思のある人は、僕に質問をしてきたり自分の打つところを見ていてほしいと呼び止めてきたりする。

そのようなアクションもなく声をかけられるのを待っているだけの人は、もしかしたら与えられることが当たり前になっているのだろうか。全員がそういった待ちの姿勢であれば、僕もただ均等に声をかけていくだけになるかもしれない。しかし、その場の中には機会を最大限に活用しようと積極的な人がいる。であれば、積極的に機会を得に来る人とそうでない人の間に、取り分の差は発生してくる。僕は一人しかいないし、目と耳は二つずつ、口は一つしかない。11人同時に、バラバラにそれぞれのことをアドバイスすることはできない。

500円で得られる機会は平等。その機会を最大化するのは、個々の意思。これを成す力は、ゆくゆくは社会で生きていくための実践的な力になると確信している。

(了)

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