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#536 今日までありがとう。これからも幸せな日々を

なんだか遺言のようなタイトルになってしまったけれど。

今、僕がこうして文章を書いているのも、この後stand.fmで話をするのも、家族と過ごす時間を送ることができるのも、ソフトテニスを子どもたちと楽しむことができるのも、全ては今日まで生きてきたからだ。何を言っているのかと思われるかもしれないが、その年数は37年。本日時点で37年と181日だし、449ヶ月と28日だし、1,956週間と3日だし、13,695日である。ここまでのどこかで僕が死んでいたら今はないし、これからもない。

この夏、たくさんの楽しい思い出や幸せな出来事と共に、世の中では悲しい出来事もあった。熱中症で中学生が亡くなり、水難事故で小学生が亡くなり、つい最近は車内置き去りにより0歳の赤ちゃんが亡くなる痛ましい事件もあった。亡くなった方々のご冥福をお祈りするとともに、こういった悲しい出来事をいかに防いでいくかという議論は他で十分成されているので譲らせていただくとして。

こういったことは、幼い頃の僕に降り掛かってもおかしくなかった出来事でもある。そうはならずに今日まで生きてくることができたのは、両親をはじめとしたたくさんの方々が守ってきてくれたからであり、僕自身が幸運に恵まれていたからだろう。そしてそれは、現在の僕と関わってくださっている方々にも言えることである。

毎日仕事で会う方々、テニスコートで一緒に練習する子どもたち、その保護者さん、最近では練習会に新しく来てくれるはじめましての出会いもある。そういった方々と当たり前のように出会えるのも、数々の幸運と顔も名前も知らない先人たちの助けがあったからだろう。そういったことに、感謝を念を覚えるようになった。

そして、これからの日々も、この一瞬より後のすべての時間も、当たり前のように存在し続ける保証はどこにもない。僕が運転しているときに思わぬ事故にあうこともあり得るし、病気や天災がいつ襲ってくるかもわからない。今日を共に過ごせた人と、次の機会も一緒にいられるかはわからない。

一期一会という言葉がある。言葉自体の意味は「一生に一度きりの機会」。いつも会う人に対しても、これが最後かもしれないと考え、その時を大切にするべき、という教えが含まれている。今よりも格段に命を落とす可能性が高かった時代には、まさにそのような日々だったのだろう。

生きて明日を迎えられることが当たり前の時代になった。少なくとも日本では、よっぽどの事情がなければ飢えに苦しむこともないし、紛争に巻き込まれるようなこともない。あって当たり前の日常への感謝は薄くなった。一つ一つの機会に注ぐ力の密度も下がった。それは成熟した社会の幸せを表しているのかもしれないが、それでも「まさか」がやってきたときに、やれるだけのことをやってきたと思える日々を過ごしているだろうか。

今日もソフトテニスの練習会がある。今日、子どもたちのためにできることを全てやって終えよう。完璧でなくてはならないのではなく、今日、できることをやり残さない。もしも次がなかったとしても、やるだけのことをやった、と思えるように。感謝とともに。

(了)

○この内容をもとにお話したstand.fmの放送は、こちらから聞くことができます


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