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#585 良いレッテルを貼る

今回の要点

  • 長所や良い変化は本人が自覚していないことがある

  • 「良いレッテル」を貼ることで自覚につながる

  • 本人と対照的なことに対して無理にレッテルを貼る必要はない

長所や良い変化を逃さない

日々、テニスコートで子どもたちや保護者さんと接していると、新たな長所や以前より良い変化が起きていることに気づくことがよくある。こういったことを本人が自覚してくれていればいいが、多くの場合は自覚していなかったり、あるいは意識はしていても日本人特有の奥ゆかしさなのかそれを前面に出そうとしなかったりする。これは正直、もったいない。

近頃心がけているのは、そういった良い部分に気づいたら、本人に言葉にして伝えるようにしている。こういうところが上手だよね、とか、こういうところがよくなったね、などなど。これを、僕は「良いレッテルを貼る」という行為と自分の中で定義している。

レッテルは悪いものばかりではない

レッテルを貼る、というと悪い印象が先行するかもしれない。例えば「あなたはだらしない人だよね」とか「いつも遅刻する人だよね」というようなマイナスなレッテル貼りをされると、不思議なことに人はその貼られたレッテル通りに生きるようになる。

もちろん、もともとそのレッテル通りの部分があるから言われるのかもしれないが、ちょっとだらしないところが見えただけで、ほんの数回時間に遅れることがあっただけで、周囲にはそのイメージが付いてしまいレッテルとして貼られてしまう。誰にでもあるようなマイナスな部分だが、レッテルを貼られることで本人の自己イメージも強化されてしまう。結果、よりそのレッテル通りに行動してしまう。

ならば、長所や良い変化についてもそれを感じ取ったこちらと本人の間で共通イメージを持ってしまえるように、レッテルを貼ってしまってはどうか。「こういうところが上手だよね」とか「ここが上手になったよね」とか、保護者さんに対しては「子どもへの言葉のかけ方がこういう風によくなりましたよね」などなど。そういったことを自覚していることに加えて他者からもそういう認識をされていると思うと、自然とそのレッテルに見合った行動を取りたくなる。

なんでも褒めろという話ではない

褒めて伸ばす、ということが言われるようになって久しい。良いレッテルを貼る行為も褒めることとほぼ同義だが、勘違いしてはいけないのは本人の現状と対照的なところまで褒めてレッテル貼りをする必要はない、ということ。できてもいないことを無理に褒める必要はないし、本人の気質と正反対のレッテルを貼られても共通認識は生まれない。大事なのは、観察から感じた良いところ、良い変化をもとに伝えることだ。

(了)

○この内容をもとにお話したstand.fmの放送は、こちらから聞くことができます


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