3月11日(2000年) 全勝優勝しかない

屈辱のJ2開幕戦。当然全勝優勝でどの試合も3-0以上のスコアで勝たなければ意味が無いと、今思えば、驕りたかぶっていて、ナメまくってました。

この試合には勝ったけど、まさかその後、苦行ともいえる厳しいJ2の戦いになるとは思いませんでした。絶対にJ2降格だけは繰り返してはいけません。

そして3月11日と言えば、2011年に触れずにはいられません。当時、サラリーマンでその日は埼玉営業所の歓送迎会の日でした。歓送迎会の準備もあるので午前中で営業の外回りを切り上げ、午後は北本市の事務所で事務処理をしてました。14時46分。突然の大きな揺れに「とうとう首都直下型地震が来てしまったか?」と思いました。そして物凄く揺れが長く感じて焦りを感じました。「このまま営業所の建物が倒壊して死ぬのか?」と一瞬、脳裏をよぎりました。揺れがおさまって確認すると、同僚にけが人はなく、棚が倒れたり、物が落ちたりという被害はありませんでした。気付いたのは、まず停電。次に各階の防火扉が閉まっていて、消火器が思わぬところまで吹っ飛んでいたりと地震の大きさを物語っていました。次にやったことは、懇親会の会場まで電車で移動だったので(場所は浦和の「ちきん亭」)、JR高崎線が動いているかの確認。電話が通じなかったので北本駅まで歩いて確認に行きました。すると運転見合わせ中で復旧のめどは無いとのこと。更に、停電で情報入手手段が限られる中、車のカーラジオを聴いている方から、「東北の方に大津波警報が出ているらしい」と聞かされました。事務所に戻ると何人かの同僚が同じようにカーラジオを聴いてました。その中の一人が「森川君、この地震かなりヤバそうだよ」と伝えてきました。奇跡的に「ちきん亭」と電話が繋がり、お店の無事の確認と本日のキャンセルを伝えました。その後、所長判断で事務員と入社歴の浅い社員から帰宅することに。ただ問題は、停電でシャッターとセコムのセキュリティーシステムが稼働しないこと。私も所長と大先輩社員の3人で残ってましたが、17時ごろ「何時になるか分からないから、森川君は帰っていいよ」と言われ帰宅。しかしここからがまた大変でした。JR高崎線が運転を見合わせているので、国道17号、旧中山道などの幹線道路だけに限らず、高崎線と並行する南北方向の道路が生活道路の裏道まですべて渋滞。結局、与野の自宅まで戻るのに通常1時間の所、3時間以上かかりました。

その後も、福島原発の事故があり、計画停電やガソリンを始め生活物資不足、放射能の危険性を感じながらの外での作業と大変な生活を送った記憶があります。今後も南海トラフや首都直下型地震や最近では宮城沖地震の危険性まで言われています。十分に対策をして備えておかなければ、肝に銘じています。

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