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「理の親子」について

 昔から、天理教の中で、話題に上る「理の親」について、考えてみたい。私自身も、この言葉に対して、いろいろな思いを持っている。自教会の古い役員さんも、よく使っていた言葉のように思うので、恐らく、かなり古くから、教内で使われてきた言葉なのかとも思う。
 
 公式に「理の親」という言葉が、どこに出ているのかと、調べてみたが、原典や教典などには、出てこないのかと思える。以前、確か「おさしづ」に一度だけ、「理の親」という言葉が使われていると、読んだ記憶があるが、それは教祖のことだったように思う。
 しかし、実際によく使われてきた言葉でもあるから、古い『みちのとも』の記事や、教理をやさしく解説したような本には出ているのではないかと思う。『お道のことば』深谷善和 天理教道友社から引用する。

『お道のことば』深谷善和

理の親子
 前項で、先に導かれ、先に目覚めた者が、ひたすら教祖のひながたを求め、たどっていくところに、自然とその人に導かれ、たすけられた人々が慕い寄ってくるという「順序の道」について述べましたが、このようにして出来てきた、先に歩む人と後から導かれる人、教えを伝える人と伝えられる人、布教者と信者、という関係を、お道では「理の親子」と申します。信仰の道を歩む上での親子ということで、導く人のことを「理の親」、導かれる人を「理の子供」と言っています。

『お道のことば』深谷善和 天理教道友社 P312-313

 だいたい、天理教を信仰してきた人なら、上記のような「教えを伝える人と伝えられる人」、「布教者と信者」という考えで、「理の親、理の子」という言葉を使ってきたのかと思われる。自教会でも、よく古い役員さんが「会長さんは、我々の理の親だから、会長さんの思いに添うようにやりましょう」というように言っていたのを、よく耳にしたように思う。
 また、実際にそうやって、会議も進んだり、物事がおさまったりということも多かったように思う。それだけに、上記の深谷善和氏の説明も、頷けるものかとも思う。続きを読んでいただきたい。

 しかし、これは決して、古くからの家族制度をそのまま当てはめたものではありません。むしろ、家族についても、従来の封建的な親子の考え方を根本から改めて、本当の親と子のあり方をお教え下さったのが、このお道であると申せましょう。
 私たち人間は、みな親神様の子供であり、親神様こそ私たちの真実の親なのであります。親神様は常に可愛いいっぱいの親心をもって、私たちを抱きかかえ、お育て下され、お導き下される中に、一人々々の心を見澄まして、生まれかわり出かわりしながら長年にわたって歩んできた心の姿、いんねんを見定めて、一番よいと思召された人と人とを組合わせて、親として子としてこの世に生まれさせ、生活させて下さっているのです。末代かけての時の流れの中で、親が子となり子が親となって、ご恩報じ、通り返し、いんねん切り替えの道を通るのだと言えるでしょう。また一面、親神様から預けられた子供に対して、親神様に代わって、親としてのご用をつとめているのが、肉親の親の立場であるとも言えるのでしょう。
 これは肉親の間柄だけではありません。人と人との結びつきはみな、見抜き見通しの親神様が、深い親心の上から組合わせ下さっているのです。真実たすかるこのみ教えに引き寄せられるについても、それぞれのいんねん見定めて、それぞれに一番よいと思召された人と人を結び付け、信仰を進めていく上の、世話をする人とされる人をつくって下さる。それが「理の親子」です。誰かににをいがかかるのも、おたすけをさせてもらうのも、みな親神様の先回りのご守護があればこそであります。

『お道のことば』深谷善和 天理教道友社 P313-314

 これを読んで、間違っていることは言っていないかとも感じるのだが、「いんねん話」が出てくるので、嫌がる人もいるであろう。「それぞれのいんねん見定めて、それぞれに一番よいと思召された人と人を結び付け」というのは親子の関係でも、夫婦の関係でも、よく言われているように思う。
 しかし、現実には教内でも、親子関係が断絶している例もあるだろうし、いんねんよせて、ふさわしい人と結婚しても、別れてしまうケースもあるように感じている。逆にこういった「いんねん話」があるために、形だけ円満な親子関係、夫婦関係を保ち、中身は冷え冷えとした関係の人もいるように思う。
 
 不思議に思うのは、教祖中山みき家族関係である。「見抜き見通しの親神様が、深い親心の上から組合わせ下さっているのです。」とあるが、教祖さまと秀司さんは、最後まで対立していたようにも思うし、秀司さんは正妻のまつえさんを娶るまで、おやそさん、おちえさんと結ばれ、子供までいたわけで、それを「やしきのそうじ」ということで追い返し、長女のおまささんにしても、福井家へ嫁いで、戻ってきて分家をたてたはずである。
 深谷善和氏は「人と人との結びつきはみな、見抜き見通しの親神様が、深い親心の上から組合わせ下さっているのです。」と説いているが、親神様は見抜き見通して、後々、別れさせるのも前提に結びつけているというようなこともあるのかと思ってしまう。
 人間にはわからない神の世界の話なのだろうか。
 
 話が逸れたので、元に戻すが、「理の親子」というのは天理教内で、間違った使い方をされてきた言葉なのかと思う。「従来の封建的な親子の考え方を根本から改めて、本当の親と子のあり方をお教え下さった」とあるが、現実に、天理教内では「従来の封建的な親子の考え方」で、教団が運営されてきたから、多くの問題を生み出したのかとも思える。
 深谷善和氏の解説の続きを読んでもらいたい。

 「理の親」になるということは、真実元の親である親神様、教祖になり代わって、親心を伝え、親心をかけていく使命をお与え頂いたということです。まず自分自身が子供として、教祖を慕い、ひながたの道を真剣にたどるとともに、真実の親、親神様、教祖になり代わって人を育てさせてもらうのだという心がなによりも大切です。

『お道のことば』深谷善和 天理教道友社 P314

 読んでみて、いかがだろうか。上記の文が全てに集約されるようにも感じる。ところが、以前から「理の親」という言葉で、問題になっているのは、上記の説明とは全く真逆のことをしているから、おかしなことになっているのだとわかる。「親神様、教祖になり代わって、親心を伝え、親心をかけていく使命をお与え頂いた」という自覚などなく、上から目線で「理の子」に対して、都合よく従わせるというようなことを、やってきたから、「理の子」が離れていったり、不足を持ったりしてきたのではないだろうか。
 
 「現実の親子関係」を例に、私の考えを述べていくことにする。
 酒ばかり飲んで、働きもせず、酔っ払っては、嫁さん、子供に当たってばかりいる親がいるとする。子に対して「親の言うことがきけないのか」と、服従させようとする。子は、それでも、親だからとがまんして、言いたいことも言えず、耐えている。子というのは、親が好きで尊敬もすれば、正しいとも思うものだ。こういったケースは非常に難しいとも思うが、子が親に何か言うのは難しいことである。
 周りの者が、その親に対して、「いい加減にしろ」と、たしなめたりできれば、救いもあるのだろうが、子が「いい加減に目を覚ましたらどうだ」と正論を言ったら、大喧嘩にしかならない。それでも、親が気づき、改心すれば、子はついていくものだとも思う。
 
 私は「理の親」だからといって、「理の子」が何も言わない、或いは、忖度して、間違っていることがあっても、意見しないことはよくないと思っている。なぜなら、子も親を思うなら、言うべきことは、言わなければならないと思うからである。
 子はいつまでも子ではない。成人して親になる。親はいつまでも親ではない。子が成人し、独り立ちしたら、もう親というよりは、同等になり、更には将来、子の世話になるものかと思う。
 そう考えれば「理の親」「理の子」が成人するまでは、親心と愛情をもって接するのが当たり前のことで、「理の親」という言葉を振り回して、「理の子」を服従させるようなことがあってはならない。
 
 教内の多くの事例を見ていると、「理の親子」関係が、うまくいっていた教会と、「理の親子」関係が破綻していた教会と、はっきりと結果が出ているようにも感じる。初代ではうまくいっていたのに、二代、三代と、代を重ねるにつれて、「理の親子」関係はおかしくなるのかとも思う。
 私の所属大教会も後者の例で、既に会長も変わっている。本当に、親心をかけていたら、子はそれに応えて、親を衰退させるようなことはしなかったはずである。

 やはり、上下関係を生み出し、様々な問題を引き起こす「理の親、理の子」という言葉や、「教会制度」はやめるべきだと、あらためて思う。


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