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天理教で「理立て」というのは、心の誠を尽くすことのようだが…。

「理立て」って何だ?

 新しい車を買ったし、「理立て」です、と教会へ運ぶ。子供が無事に入学式を終えた。ありがたいから「理立て」させていただこう。何とか退院できたし、会長さんに「御供」と書いて「理立て」しておこう。天理教の人なら、こういった場面に何度も遭遇したことがあるかもしれない。

悪しき習慣なのだろうか?

 紅白の熨斗袋に筆ペンで「御供え」とか、「理立て」と書いて、何か事があるたびに、現金を入れ、会長さんに渡すことなのだろうか。いつから、このような「習慣?」が出来たのだろう。子供の頃から親がそうしているし、考えたこともない。そうすることが信仰なんだ。当たり前のことなんだから、あまり深く考えない。
 しかし、よくよく考えてみると、これも悪しき習慣のような気がしないだろうか。宗教二世問題が取り立てられている現在、問題になってくるようにも感じる。
 天理教の子弟はそんな親の姿を見て、自分もそうしなければならないのか、或いは親に言われて、「理立て」という名の現金を出さなければならないのかと考える子もいることと思われる。
 「統一教会」のニュースで宗教二世の子供たちが、親が多額の献金をして、家庭が崩壊したとか、満足な教育も受けられなかったとか、苦しかったであろう胸の内を明かすようにもなってきている。
 こういった話はどこの宗教団体でもある話なのだろうか。「宗教」と「金」は切っても切れない関係にあるのだろうか。

「理立て」の意味合い

 親が「理立て」の意味合いを詳しく説明し、本人もそれを納得し、自らの意志で行うのであれば子も文句を言わないだろう。しかし、何で「理立て」というものがあり、うまく説明もできないまま、「つべこべ言うな。こうするもんなんだ。」となれば、子の心には反発心しか生まれないのかとも思う。ちょっと『天理教事典』で「理立て」について調べてみることにする。

「理を立てる」ことの意味で、親神の思召に添った筋道を立てることである。「おさしづ」において、「理を立てるが真の誠」(さ33・10・6)と諭されているように。「理を立てる」ことは、「真の誠」の心を尽くすことである。そうした真実誠の心こそ、親神の思召にかなうものであり。親神はその心を受け取るのである。信仰の具体的な場面において、親神の守護を願って、ことを進める場合、真実誠の心を受け取っていただくために、親神へのお供えがなされるが、そうしたお供えのことも「理立て」と呼ばれている。

『改訂 天理教事典』 おやさと研究所編 948頁

神様はお金が大好きなのか

 読んでみてどうだろうか?「お金」とか「現金」とは一言も書いていない。誠の心を尽くすことが本来の意味のようだ。しかし、後半部分に親神の守護を願って、ことを進める場合に、親神にお供えがなされるともある。
具体的にはやはり、「現金」なのだろうか?天理教の親神は「お金」が好きなのだろうか?
 
 便宜を図る「お偉いさん」が分厚い札束を前に置かれて「よしよし、任せておけ…」というようなドラマの場面が浮かんでくる人もいるのではないだろうか。悪代官と暴利を貪る悪徳商人のイメージがつきまとってしまう。
 親神はそんなケチな悪代官なのだろうか。分厚い札束を置かなきゃ、ご守護せんぞというようなものなのか?
私にはそうは思えない。
 むしろ人間であり、立場的に人の上に立つ「教会長」の中に、上記のようなケースがあるように思われてならない。ここに問題の本質があるように思われる。
 
 十把一絡げに「会長さん」と言っても、悪代官まがいの人もいれば、純粋に教祖のひながたを実践し、本席のように心を低くして信者を大事にする人もいるのだろう。しかし、「人間」である以上、知らぬ間に、心に「ほこり」が積もってしまうこともあるだろう。しかし、立場におごることなく、常に自身を振り返り、心のほこりをはらい続けることができる人であれば、何も言わなくても、自然と人は信頼してついていくものだとも思う。人間である以上、必ず心に「ほこり」が積もる。私は「ほこりなど積まない」などと豪語する教会長がいれば、その段階で信用ならない人物だと私は判断する。
 残念なことは、そんな「ほこり」を払い続けられる立派な会長さんは目立たないことだ。逆に「悪代官まがい」は目立とうとし、口では立派なもっともらしいことを言うように思う。

「理を立てる」ということは封建的

 別の天理教用語に関するものを調べてみよう。『天理教用語辞典』岸義治著では「理」の項目のところに「理立て」に関することが書いてあった。

あの人は理のある方だという場合は、神様の思召しを体得した人という意味であり、理を立てるということは、人間思案を先に立てるのではなく、神様の思召しを先に立てるということで、この精神を失った時、上級教会に理を立てる、目上に理を立てるということも、いわゆる封建的なことになってしまうのであります。天理教ではまた理立てといって、教会にお金を尽くすことを一般に申しておりますが、これも、神様の思召しを立てていくという本質から、たまたまそれがお金という一つの形に現れたのに過ぎないのであって、その精神を失った金の多寡を言うものではありません。それから理というのは感情に対する理性というような相対的な意味ではなく、天理教でいう理とは、もっと絶対的な、暖かい守護、親心を含んだものであります。

『増補改訂 天理教用語辞典』岸義治 養徳社 181-182頁

  この辞典の著者である岸義治氏は元天理高校教諭であり、天理高校出身なら教義を習っていた方も多いことと思う。また著書を読まれた方も多いと思う。「理立て」に関する解釈も神様の思召しを先に立てることが大事であり、それがなければ封建的になると説いている。江戸時代の幕藩体制のようなものである。言葉は悪いが上納制度の反社会的組織のような印象も受ける。お金に関しても一つの形としてあると説いている。では、お金じゃなくてもいいということなのだろうか?

 もっと本質を考えていけば、「おしい」心が染みつき、出したくもないのに出さされ、「にくい・うらみ」がこもった「理立て」を神が喜び、しっかりと受け取るかということであると、私は考える。
「理の親」についても以前の記事でまとめたが、「理立て」の話にしても同じことである。神様の思召しを先に立て、神が受け取り、勇んで働いてくださるかということであるように思うが、どうなのだろう。

まとめ

 宗教団体が衰退していくというのは、本質を忘れ、「悪代官まがい」が幅を利かせているからではないのだろうか。天理教の場合、バチカンをモデルに「箱物」にお金をつぎ込みすぎている印象もあるが、立派な巨大な建物にお金をつぎ込むのではなく、人々の「心のふしん」を促進させることに、つぎ込むことを親神は望んでいるのではないだろうか。
 「箱物」は一度、建てると修繕や建て直しもしなければならず、所詮、モノに過ぎない。宗教というものは「心のふしん」をするもので、「建物のふしん」をすることではないと考える。逆に「心のふしん」が進めは、「箱物」などは、すぐにでも建つものなのかとも思うが。
 人間は過ちを犯す生き物である。どんなに注意していても、心に「ほこり」は舞い降りてくる。人のことを偉そうに言える立場ではないが、教団の長も役員も、教会長も信者も皆、人間である。間違っていると思えば、談じ合い、「ほこり」を払い、親神の望む方向へ、舵を切ることが大事なのではないだろうか。

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