小学校時代

野球を始めてから練習行くたびに楽しかったのを思い出します。僕が試合に初めて出たのはのは小学校2年生の冬の岐阜への遠征の時でした。結果は1打席立って、高めのボール球を振ってしまい空振り三振と、守備ではライトを守りエラー。散々な僕のデビュー戦でした。そこから試合に出始め、4年生の頃はレギュラーを掴み、9番ライトで試合に出ていました。中でも思い出深いのは県大会決勝でタイムリーを打てたことです。その時のピッチャーの方は高校時代に1年と、3年の関係で再会しました笑覚えてはなかったと思いますが笑そして2個上の兄のマウンドに立つ姿をライトからずっと見ていてすごいかっこよかったのを思い出します。ファインプレーで何度か救いましたが。笑県大会準優勝で出た松井秀喜杯はツーアウト三塁で僕に打順が回ってきて空振り三振し、結果1対0で1回戦敗退。すごい悔しくて泣きまくったのを思い出します。
5年生の頃は4番をたまに任されたり、ピッチャーで何試合か投げました。5年生の記憶は6年生最後の大会でツーアウトランナー、2塁で1打勝ち越しの場面でセンターをやってる僕に打球が飛んできました。バックホームをすればよかったんですが僕はセンターゴロを狙ってしまい結果セーフ。その1点で負けてしまい、6年生に泣きながら謝ったのも思い出します。
そして迎えた最後の年。同い年は3人しかいなくて下の学年に何度も助けられました。キャッチャーとピッチャーが主で打順はほぼ2番でした。キャプテンも大きな大会で2回任されて、まとめることのむずしさを感じました。僕たちの代は史上初めてなんじゃないかって思うくらい1つも優勝できませんでした。僕たちのチーム主催の大会ですら勝てませんでした。しかしその決勝で負けた相手にミズノカップという大きな大会で僕が投げ、やり返せたことは今でも覚えています。同い年は3人だけでしたが最高の思い出になりました。
僕たちの監督はずっとチームを指揮されている宮前さんという方でした。僕の時は68歳にも関わらずそこらへんの小学生より速い球でバッティングピッチャーをしてくださったのは今でも覚えています。指導方法は子供たちよりも野球馬鹿といいますか誰よりも熱かったです。中学や高校行ってもどこでもできるように左投げとか関係なく守らせてました。僕もサードやショート、キャッチャーなどを経験できました。あとはキャプテンを固定せず大会ごとにキャプテンを変えていたことも印象的でした。この方は今でも僕のことを応援し続けてくれていて高校や大学の試合も何度か足を運んでくださいました。まだまだ野球で恩返しできてないので頑張りたいと思います。

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