アメリカンドッグ

どうしようもない時、俺はアメリカンドッグを食べることにしている。受験に失敗した時、彼女に振られた時、しょうもない先輩の武勇伝を聞かされている時。そういう時には、俺は無性にアメリカンドッグが食べたくなってしまうのだ。

理由はおそらく単純で、食べていると、少しだけ楽しい気分になれるからだ。「ときめいている」という表現が一番適切かもしれない。食事に楽しさやときめきなんかを求めてしまうのは、やや現代病的ではあるけれど、本当なのだから仕方がない。

では何故人は、いや俺は、アメリカンドッグにそのようなことを求めてしまうのだろうか。食べ物に限らず、憂さ晴らしの方法なら他にもいくらでもありそうなはずなのに。

先輩はこちらの追従に気を良くしたのか、さらに語気を強め、何の自慢にもならないやんちゃエピソードをひたすらに展開してくるので、俺は仕方なく深呼吸をした後、気を紛らわすためにこのおおよそどうでもいい問いについて考えを巡らせてみることにした。

思えば初めてアメリカンドッグを食べたのは小学五年生の時だった。学内で催された展覧会(小規模なバザール)でたまたま持っていた半額券を使うために買って食べたのが最初だ。

それにしても、あまりに無骨過ぎるその出で立ちの食品を前に、当時の俺の心は1ミリたりとも躍らなかった。それもそのはずである。わたあめのようなファンシーさもなく、チョコバナナのような華やかさもないのだから。ただそこにあるのは、割り箸に突き刺してある、のっぺりとした何かだ。一体何者なんだ貴様は。

そして俺は、手にしたその得体の知れない食べ物に貰ったケチャップをかけ、半ば強制的に対になって出てくる陰気なマスタードを指で拭い、一思いに頬張った。

衝撃が走った。美味いのである。今まで食べてきたどの食べ物よりも、はるかに美味かったのだ。外見からは到底判別不能な美味さが、確かにそこにはあったのだ。己の武器であるはずのソーセージ(衣が本体か、ソーセージが本体かは専門家の間でも意見が分かれる)を敢えて衣で隠すその粋な装いにさえ感動を覚えてしまうほどだった。さながら、食品界の座頭市といったところだろうか。

それにしても、本当に人間の予測などは浅はかなものである。食べる前には、「ボソボソしているだけの冴えないパン」くらいのイメージだったものが、食べた後には、究極完全体グレートスナックに書き換わってしまうのだから。

そういうことだから、俺は何か嫌なことに直面した際には、アメリカンドッグを食べて、当時のあの心躍るような気持ちを追体験しようと試みているのではないかという結論に至った。

もちろん回数を重ねる毎にその効能は少しずつ希釈されていくのだが、それでも、アメリカンドッグは今でも俺に、新鮮な何かを届けてくれているような気がしてならない。

そして俺は今、辟易するような先輩の呪縛から一時的に解放され、休憩室の椅子に座り、職場スタッフが繰り広げる猥談をBGMに、この文章を書いている。左手にはミスタードーナツのオールドファッションが握られており、気分はいつにも増して良好だ。

そうなのだ。俺は最近、新しい衝撃を受けてしまったのだ。



水とパンを買います