ヴィム・ヴェンダース監督の言葉
先日、ようやく「PERFECT DAYS」を見に行った。
余韻のある素敵な映画だった。
映画を見てあー面白かったですぐに忘れる映画もあるけれど
余韻がずっとある映画というのは
たとえ内容が悲劇的な終わり方であっても
内面にかなり波紋を残しているゆさぶっている映画だといえる。
それは自分の中のたましいに届いている作品だ。
そういう映画は私の中ではいくつかある。
「心と体と」とか「アルバート氏の人生」とか「かぐや姫の物語」とか
「みつばちのささやき」とか。
再度見たい映画はその感覚をもう一度体験したいからなのかも。
ヴィム・ヴェンダース作品をいろいろ見ようと配信サイトで検索すると
すでに見たものもあるけど、まだ見ていないものもあった。
「東京画」って前にも見たかもしれないけどもう一度見た。
ドキュメンタリー風の小津安二郎の世界を彼が取材していくものだった。
その流れで何度目かの「東京物語」を見た。
そうそう「東京物語」も物語としては派手なものはまったくない。
なのになぜ何度も見てしまうのか。見たくなってしまうのか。
原節子や笠智衆の何か穏やかな空気感のせいなのか。
ヴィム・ヴェンダース監督が「PERFECT DAYS」について語る
ロングインタビューがYouTubeにあったのですべてみた。
6まである。
名言がたくさんあったけど
映画って結果的にプロセスを体験するってことなんだなあと
改めて思った。
物語を見るのではなく、体験する。
第六弾の「どう撮ればいいのかわからない、それが理想」で
私もすべて日本語で映画を撮るって
日本人の私がドイツ語知らないのにドイツ人しか出てこない映画を撮るのと
同じでよく作ったなあと思ったものだけど
彼自身、どうすればいいのかわからないから映画にしたというか
わかっていたら映画にしないというお話をしていて
いや魚座感がすごいと思った。
人はわからないものにひるみ、近づかないものだが
わからないというのは違う見方にすれば宝かもしれない。
あと「些細なことに気が付くことができたら、
それがそのまま大きなヴィジョンを持つことにつながります」
という言葉も深い。
「PERFECT DAYS」の主人公平山さんを僧侶のイメージとして話されていたけど、この映画から思い出されたのが
フランスの修道院のドキュメンタリー「大いなる沈黙へ」という映画だ。
ほとんど会話をすることがない修道士たちの日々のルーティンを
ひたすら見るという苦行のような(笑)、しかも3時間も、だけど
平山さんがどんなときにも欠かせない小さな木の苗に霧吹きするルーティンは彼にとっては祈りのようなものかもなと思った。
「大いなる沈黙へ」は途中日曜だけかな、
会話が許されていて非常に短い会話シーンに
「私たちの行為は象徴で、その象徴を理解してないと、方向を見失う」
というようなセリフを言われてたのが印象的だった。
そうなると平山さんの日々のルーティンそのものが祈りかもしれない。
ただのルーティンではなく、そこに何かを見ている。
些細なことに気づいている目線。
朝の太陽の日差し、青空、光、木陰、人のしぐさ、
そこに何かをみつけるとき、
大きな全体像があらわれてくるのかもしれない。
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