仙洞寺山の歴史
■ 烽火台(のろしだい)
フォレスト21”さがみの森"は神奈川県相模原市緑区青山にある、仙洞寺山国有林内にあります。仙洞寺山という名前は、山麓にある仙洞寺という寺の名前から付けられたといわれています。仙洞寺は曹洞宗の寺で、1430年の開山とされています。現在、お寺は仙洞寺山の東の麓にありますが、昭和40年代までは山の中腹にありました。
仙洞寺山には、遺構や文献が残っているわけではありませんが、位置や展望といった地理的条件と、近くに「火海峠(ひうみとうげ)」という地名が残っていることから、烽火台があったと考えられています。この地域の塗火台は、小田原の北条氏が、甲斐の武田勢の侵入を警戒するために利用していました。
フォレスト21"さがみの森"から真正面に見える「城山(しろやま)」には、八王子城などと並んで北条氏の重要な出城であった津久井(筑井)城という山城がありました。ここは北条氏配下の有力な武将であった内藤氏が守っており、その津久井城に急を知らせるための烽火台が、山梨・神奈川県境付近にいくつも作られていたようで、仙洞寺山も、そのひとつであったのではないかと考えられています。
フォレスト21"さがみの森"のフィールドから仙洞寺山の山頂に向かう尾根道を少しはずれると、西側に広く展望が開ける場所があります。そこから眺めると、いくつもの烽火台を確認することが出来ます。そこには常に何人かの将兵が詰め、緊急事態に備えていたのでしょう。
■ 仙洞寺山の「江川ヒノキ」
仙洞寺山のある津久井地域の森林には、世紀後半から江戸幕府が直轄して山林資源の保護・存続と恒久的財源化をはかるため、「御林」が多く設定されました。その一部が「仙洞寺山江川ヒノキ展示林」として今も残っています。「江川ヒノキ」は、伊豆国韮山に代官所をもつ世襲代官、江川太郎左衛門英龍(えがわたろうざえもんひでたつ)の時代に植林されたヒノキで、御林の管理者である代官に因んで「江川ヒノキ」と呼ばれています。
江川家は大和源氏の系統で鎌倉時代以来の歴史を誇る家柄で、代々の当主は太郎左衛門を名乗り、江戸時代には伊豆韮山代官として天領の民政に従事しました。英龍はその36代目の当主に当たり、35歳で韮山代官を継ぐと、二宮尊徳を招聘した農地改良、西洋砲術の導入など、様々な功績を残しました。また、兵隊の携行食糧にと日本で初めて「乾パン」を焼いた人物としても知られています。
江川英龍は林業にも精通しており、多摩地域・津久井地域に人工林のスギやヒノキを植樹しました。それらが「江川スギ」「江川ヒノキ」として呼ばれ、現在高尾山や城山にも残っており、樹齢150年を超える大木に育っています。
仙洞寺山江川ヒノキ展示林
所在地:神奈川県相模原市仙洞寺山国有林267林班小班
面積:0.18ha
設定年月日:平成6年4月(更新年度元年)
http://www.rinya.maff.go.jp/kanto/sidou/pdf/44toushin69.pdf
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