家族写真

 母が他界したのが2023年11月6日だから、早いものでもう一年になる。
 それで、約20年前に、いつもの「ちば市民ひろば」に寄稿したものを以下に。

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 およそ四半世紀ぶりに「写真館」できちんとした写真を写してもらった。
実は今春配偶者を得ることとなり、その人が両親と共に郷里にやってきた。その機会に、おそらくそういうチャンスは今後そうそうないだろうからと、二組の親子とも三組の夫婦とも取れる六人が、一つのフレームに収まったのである。
 四半世紀前と同じ写真館。
 あれは、五歳上の姉の短大進学が決まった一九八〇年春のこと。唐突に母が「家族写真を撮ろう」と言いだした。当時すでに兄は神奈川県内の大学に就学しており、姉も東京へ。父は相変わらず広島勤務。
 「五人家族が四箇所に住むことになっちゃった。もうこうして五人揃ってきちんとした写真を撮れる機会はないかも知れないから」。
 せっかくの春休みに、大嫌いな詰襟の制服を着込んで半日がつぶされてしまうのがとても心外で(そうそう、たしか朝から見に行きたいと思っていた催し物と重なつたんだ)、大体そういうあらたまったことが嫌いな性質もあって、写真が出来たあとも大して関心を払わなかった。

 母の推測は、あたった。
 ぼくが大学進学で千葉に出てきた年に兄が結婚して京都府内に世帯をもち、姉もぼくも郷里には暮らしていない。婚姻により二人から始まった両親の「戸籍」は、今回のぼくの婚姻でまたもとの形になったのである。

 ところで、実は母にはもう一枚の「家族写真」の思い出があったことが、今回わかった。と、いうか、そもそも四半世紀前に家族写真を撮りたいと思ったのは、母が少女の頃に撮影した家族写真の記憶に触発されたためらしい。
 母は、兄・姉・兄をもつ末っ子。一九四一年春、八歳上の姉の結婚が決まり、十二歳上の長兄の陸軍第六技術研究所への任官が決まつたのを機に、家族写真を撮ったのだという。

「清おじさん(母は、自らの兄のことをこのようにいう)は、角帽にマントっていう正装で写ったのよ。子どもが官立大学を出たっていうんで、おじいちやんとおばあちゃん(これも、母の両親のことだ)は鼻高々。でも、せっかく官立大学まで出したのに、軍隊にとられて戦争に持ってかれたんじゃたまらないって、内地にとどまれる『六研』を志願したのね」。

 その後戦火が激しくなったが、幸いにも両親とも親族に死者が出ることはなかった。ただし、母の家は一九四五年の静岡空襲で灰儘に帰し、家族写真も焼失した。
 伯父は、任官後すぐに毒ガス兵器の研究に携わった。その過程で、薬物をたくさん吸引したため体調を大きく崩し、終戦時には造兵廠勤務(「空襲の時は工場の全員に避難指示を出して、最後に自転車に乗って逃げ回ってたって、言っていたわ」と母は懐かしそうに笑った)。戦後も体調が回復しないまま一九七〇年、五二歳で亡くなつた。

「結局は、戦争に殺されたのと同じことよね。でも、中国ではその毒ガスで殺された人がたくさんいるんだもの。日本が中国や朝鮮でどれだけひどいことをしたのか、最近の人は知らなすぎる」。

 ほんの些細なことが、戦争の記憶と結びつく。その経験をきちんと受け止め、自分の日常に重ね合わせてみる。一見平和で穏やかな一月の午後。そこだけは四半世紀前とも六十五年前とも変わらない富士山を遠望しながら、三枚の「家族写真」について思いを巡らせたのだった。
(「ちば市民ひろば」2006年2月号)

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 2006年1月8日に撮影した「家族写真」は、母の遺影として使った。
 そして、2024年1月8日には、2017年に他界した父のものとともに、納骨したのである。


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