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バービーボーイズと私

これは私がこのギョーカイに入ってから今までに体験したこと、とりわけ、生まれ育った場所でもある東京でのせわしなかったあのころをもう一度思い出し、書き留めておくページである。

連載4回目。アイドルの現場マネージャー、FM雑誌のアルバイトを経て、ライターの真似事をしているときに、創刊号を制作中の音楽雑誌『PATi▶︎PATi』(以下、パチパチ)編集部から執筆依頼があり(書き手が足りないという理由で)、そのへんからひとまずライターと名乗ることにした。1984年ごろの話。

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ライターと並行して編集としてもパチパチにお世話になることになり、にわかに周辺が慌ただしくなってきた。

当時はもちろん、編集のなんたるかさえわかっていない。レコード会社や事務所のマネージャーさんとの打ち合わせ、毎週の編集会議、カメラマンさんやスタイリストさんのセッティングと打ち合わせ、撮影&取材場所の確保、取材当日のタイムテーブルの管理、お弁当やコーヒーの手配、撮影後の写真選び、ラフ割り(ページのレイアウトの構想)、デザイナーさんへの発注、入稿、校正、再入稿、校了……これを数本、同時進行でやらなければならない。しかも当時は今のようなDTPではない、手書きの原稿に「赤入れ」(写植を組みやすくするため句読点や改行に赤い印をつける、など)をしてからの入稿となる。

自分でインタビューして原稿を書く取材もあったので、今思えば、編集部に泊まり込みで原稿をガシガシ書いたり、その足で取材に出かけたり、体力あったなぁ〜。

それは日々新鮮で楽しいことだった。怖いもの知らずの勢い任せで、おそらく迷惑をかけた方々も少なくない数おられると思う。その節はすみませんでした。ここで謝ってもしょうがないけど、思い出すと顔が赤くなるくらい恥ずかしい失態もいくつかある。若気の至り? っていうほど若くもなかった。28歳ぐらい。

少しだけ編集の仕事に慣れてきたころ、とうとう私は「担当」を持つことになった。そのアーティスト(という言葉は当時は使われていなかったが、呼称としてこう記す)の活動を把握し、雑誌に反映させるのだ。

チェッカーズや尾崎豊らのムーヴメントに伴い、世の中に才能あるミュージシャンがどんどん輩出された84年、EPIC・ソニー(当時)でも新人バンドのデビューが続々と決まっていた。

TMネットワーク、LOOK、そしてバービーボーイズの担当に私はなった。

もちろんそれぞれに思い入れはある。担当になると常に活動を追い続けるので、どうしても(特に経験不足だった私は)情というものが移ってしまう。そういうのはあんまりよくないよと忠告されたこともあったけれど、そのバランスの取り方がそのころの私には難しかった。

今回はバービーボーイズについて書いてみる。

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【インタビュー】山崎まさよし/LEGO BIG MORL【連載】KAN、日髙のり子、LEGOBIGMORLタナカヒロキ、椎名琴音、COWCOW善し、ジャルジャル©️KYOKOMORITA2020

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