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ディベロッパー・ジェネシス/インターフェロン06(前)

 ……階段を駆け登ってくる足音が聞こえた。

 パチ、とキリは目をあけた。同時にドアが開いた。
「ディベロッパー! 起こしてすまん、起きろ!」
「お前云ってる事が目茶苦茶だぞ、クマオ」
 その時にはもう、キリは起き上がっている。動きに停滞はない。着替えを手に取りながら云う。
「一分待て。すぐに行く」
「わかった。下だ、俺は戻ってる」
 云うだけ云って、グロムはすぐ駆け戻っていった。キリは素早く、時計の時刻を見て取った。――午前五時。
 手早く服を替え、ホルスターを着けながら寝室を出る。――歩きながらコンディションを計る。痛みや不具合はない。疲れも抜けている。問題は、これがいつまで続くか、だった。……
「よう。おはよう」
 リビングに足を踏み入れる。――アヴァランサ、グロム、フリードが揃って、ノートPCを覗き込んでいた。三人の目が一斉にキリを向く。
「よう。起きたか寝坊助」とアヴァランサ。
「お陰様で爆睡出来たよ。――何があった」
 そう云いながら、キリもディスプレイを覗いた。――ニュースサイトが表示されている。動画が流れていた。映し出されているその光景に、キリは眉を上げた。
「……こりゃまた。派手な花火だ」
 建物が爆発、炎上していたのである。

「――これが昨日、例の中将が、吐いた情報」
 フリードがプリントアウトを、キリに回した。――クラウド研究所に協力的な軍人の名と、研究所施設の所在地が、ズラリと並んでいる。キリは口笛を吹いた。
「やったな婆さん。やっと手に入ったじゃないか」
「まあな」
 しかし鬼族長老の返事は、随分と素っ気なかった。キリは首を傾げた。
「どうした。あんまりテンション上がってないな。婆さんも寝不足か」
「違うわよう」フリードが解説した。「それがね。一応、こっちでも調べがついてて、もう使われてない、って施設が大半だったの」
 フリードの指が、リストの頭を指差す。……殆どに、バツ印が付いていた。更にグロムも、リストの一部を指す。
「ここは、お前が運び込まれた場所だ。お前が逃げ出した直後に閉鎖されて、以後そのままになっている」
「何だそりゃ」
 キリは色の抜けた髪をかき回した。
「つまりダッドの情報は、旧バージョンのままだったって事か。脳味噌まで枯木か。あれだけ苦労して――」
 ――犠牲も出したのに。
 キリが声にはしなかったそれを、グロムは聞いたような気がした。
「……でも」キリは一度首を振ると、気を取り直してリストを見直した。
「全部役立たず、って訳じゃないんだろ」
「ええ。それにこの、協力者リスト。これって、引っ繰り返せば――」
「【非クラウド派のリストになる】」
「御明察」フリードは、ぱちん、と手を合わせた。
「それで、ね。この施設リストと、協力者リスト。あの、ハンサムさんに送ったの。ゆうべの内に」
 キリは今度こそ目を剥いた。
「本気か」
「え、そんなに驚くとこ?」
「馬鹿! あいつらが今どういう状況か、確かめようがないだろう!」
「ちょっと。そこまでお間抜けじゃないわよ」
 フリードは少し、頬を膨らませた。
「協力して貰おうと思ってた〝鳥〟に、そのまま頼んだのよ。ハンサムさん達の尾行。それも〝梟〟と〝鴉〟の二段構えよ。抜かりないでしょ」
 えへん、と胸を張ったフリードに、キリは毒気を抜かれた表情になった。
「……成程、ね。お見それしました」
「ハンサムさん達は、まだフリーだった。と云うか、どう行動していいか、決めかねてたみたい。無理ないわよね。軍のどこにクラウド派がいるか、わかんないんだもの。このリスト、役に立つだろうと思って――そうしたら今朝未明から」
 動画に向けて顎をしゃくる。――建物が炎上する様子が、繰り返し流れている。
「……つまり、少尉達か」
「ええ。リストの所在地とも一致するもの。しかもここ一箇所じゃないの」
 フリードはブラウザのタブをクリックした。映像が切り替わる。別の箇所でも、火災が起きていた。更に他の場所でも――
「原因はそれぞれ、ガス設備の老朽化による爆発、入り込んだホームレスによる失火、不発弾処理の不備――なんて事にはなってるけど」
「偶然の筈がないな」
 キリは簡単に断言する。更に尋く。
「で、少尉達は、誰を頼ったんだ」
 ――爆発のスケールが大きい。【ちゃんとした】爆薬を【ちゃんと】仕掛けなければ、こうは全焼しない。ましてやそれなりの規模の施設である。跡形もなく吹き飛ばそうと思えば、爆弾は不可欠だ。だが少尉達の手許に、そんな装備はなかった。従って、誰か有力な軍人の許に駆け込んだ――そうキリは見たのである。その説明を一切省いた元傭兵に、しかし仲介屋は疑問を呈しもせず答えた。
「現役の軍人さんじゃないみたい。ただ相当、力はあるみたいね。退役軍人会の纏め役なんかもやってるそうよ。でも、正式な軍人さんじゃないから――」
「非合法は非合法だな……」
 キリは呻いた。――これで完全に、彼らの未来を断ってしまった。それが悔やまれた。キリが責任を負うような事ではないが――。
「――ともかく」グロムが、気を奮い立たせるように云った。
「奴らには奴らなりの、考えやプライドがあるだろうし、俺達への協力ばかりではないだろう。だがアシストになっている事は確かだ。これを生かさない手はない」
「生かさないとは云ってないぜ」
 一瞬鼻白む程、淡白な口調だった。だが次にグロムを見上げたキリは、ニッと口端を上げてみせた。そしてポンポンと、肩を叩く。――わかってる、と云うように。
「で――婆さん。肝腎のマッド・ドクターは、これでくたばる――と思うか」
「思わない」
 ただの一言である。キリも頷いた。
「だろうな。少尉には悪いが」
「何。奴らも承知の上だろうさ」
「……だな」
 実際にアウストルにぶつかったら、只では済まないのだから。従ってザパダは、アウストルの【不在】を確認した上で、施設を爆破している。つまりザパダ達の目的は、アウストル当人を葬り去る事ではない。アウストルの逃げ道を塞ぐ事だ。そしてザパダは、キリがそれと察する事も見越している。アウストル当人は任せた――それがザパダからの、この一連の爆破に込められたメッセージだ。キリは思考を進める。では――逃げ場を失ったアウストルは、どこへ向かう。
 国内の拠点――は考えにくい。これが【正式な攻撃】である事は、アウストルも察しているだろう。もう、軍提供の施設は使うまい。となると、国内に留まるのは難しくなる。残るは、国外――しかないが。
(……けど)
 アウストルは逃げるのが上手い。しかし身一つではない。データはノートPC、ハードディスク、そして頭の中に収まるとして――キリから奪ったサンプル、その複製、多くの実験体、人形。それは、キリが研究所から脱した時にはなかったものだ。あの時と同じような、素早い逃走は出来ないだろう。それらをどう運搬する――?
「――あ、また爆発だって。これでまた一箇所消えた」
 フリードがメディアのSNSを見て、リストに赤線を引っ張る。キリはそれを見ながら、更に思考を走らせる。
「婆さん」
「何だい」
 彼女も何やら、携帯端末でメールを打っているところだった。
「マッド・ドクターは、転位は使え……ないよな」
「ああ。移動には、ヘリやトラックを使ってる筈だ」
「奴は、隠れるのが上手い、って話だが――それは、完全に透明になれるって事か? 例えば、目の前の通ってもわからないとか」
「条件によるね。例えば――この家を丸ごと、結界で覆っちまうとしようか。術が高度なら、視認は不可能。レーダーにも映らない。間違って結界に踏み込んでも、反対側に出るだけだ。破るには同等の魔法が要る」
「それが【静】的な結界か。じゃあ【動】的な結界は?」
「その場合、結界と云うより隠形≪おんぎょう≫だね。綻びは生じやすい。人類≪あんたら≫の業界で云うところの、ステルスと似たようなもんだよ。あれにも、見破る方法はあるだろう。質量がゼロになる訳じゃないんだ。排熱や音だってある」
「そうか。ヒト一人ならともかく……トラックだのヘリだのになったら、無理があるよな。検問突破するのは」
「無理だろう」グロムが目を丸くして云った。「ヘリはロータ音がするし、ダウン・ウオッシュもある。トラックにしても、検問所を薙ぎ倒す事になるぞ。幾ら見えなくてもそれはバレる」
「音を消す魔法もあるにはあるが」アヴァランサが付け加える。「それだって不自然だからね。まあ難しいよ、よっぽどの熟練者じゃない限り。奴は上級者だが、専門の魔法師じゃない。そこまでは考えなくていいだろう」
 アヴァランサの解説に、キリは一つ頷いた。次はフリードに振る。
「姉さん。政府の公式見解は、〝事故〟のままか」
「まあ今のところ」ニュースサイトをざっと流し見ながら、フリードは答えた。
「ただ、マスコミは、テロの可能性を挙げてるわね。当然だけど」
「只でさえこの間、テロリストに全滅させられてるんだもんなあ。【レウフリカ】が」
 実に皮肉っぽい口調。グロムは何も云えない。キリは呟きながら、考えを纏めていく。
「それにその、退役軍人会の偉いさんか。影響力があるなら間違いなく、検問を敷くよう働き掛ける。それに反対する勢力もいるか――いや」キリは自分で否定した。「幾らクラウドに協力的っても、それは、自分にも利益があるからだ。火の粉をかぶってまで庇おうとする奴は、いないだろう。自分も裏切者扱いされかねない。むしろ……マッド・ドクターが裏切るつもりと知れば、掌を返すか。自分も一緒に逃げ出そう、っていうのでもない限り」
 キリはテーブルに、モルダニアの地図を広げた。――以前マラキアが付けた印が、一面に残っている。グロムは顔を歪めたが、キリは表情一つ変えず続けた。
「国外に通じる幹線道路と、あとは空港か。そこは軍なり警察なりが封鎖する。そっちは任せて放っとこう。万が一、空港で戦闘が起きたら――……」
 キリは顔をしかめると、アヴァランサを見た。
「婆さん。転位の準備をしとくよう、本家に掛け合っといてくれるか」
「あんまり期待しないどくれよ」
「いや、何が何でも頼む」
 意外にも強い言葉で云ったキリに、アヴァランサは眉を上げる。キリは真顔で云った。
「もしマッド・ドクターが空港に現れたとして――俺達が仕留められなかったら、空軍が空港を爆撃する。感染者が増えればそれしかないかも知れないが、そうなる前に片付けたい。ただ、空港に貼り付いてる訳にはいかないから、転位は必須だ。そう説明してくれ。――被害者は限りなく少なく。鬼族にとっても、その方がいい筈だ」
「……まあね」
「それに」キリは苦笑した。「自分で云っといて何だがね。可能性はかなり低いと思う。だからあくまで、万が一のために、だ」
「何故そう思う」とグロム。
「マッド・ドクター一人ならともかく、人形や実験体までは積めないだろ。旅客機には。軍のバックアップでもない限り」
 そしてそのバックアップは、もう望み薄だ。
「データだけ持って、人形や実験体は始末しちゃう、って可能性は?」とフリード。
「それはないでもないな。でも始末するにもそれなりに、手間暇かかるだろ。半端な始末をして、当局に押さえられたらコトだ。それにどこに逃げ込むにしても、手ぶらって訳にいかない。〝手土産〟が要る。それに」
「それに?」
「俺達が追って来る事は、承知の上だろう。兵隊は手許に置いときたいんじゃないかな」
「あ、そっか。なっとく」
「自分と実験体と、別々に逃げるという方法もあるぞ」グロムが示唆する。
「そうだな。ただやっぱりそれも、可能性は低いと俺は見てる」
「それもか。何故」
「自分で管理してないと気が済まないんじゃないか、と思ってね。マッド・ドクター的に。そうじゃないか、婆さん」
「そうだね」アヴァランサは、一度あらぬ方を眺めた後で頷いた。「自分の物に他人が触るのを、嫌がる傾向はあったね」
「ましてや、鬼族ウイルスと患者だぜ。部下に任せられると思うか? と云うか」
 任せられる部下がいるかどうか。下手をすると、荷ごと司法当局に駆け込まれかねない。
「実際蟻地獄≪レウフリカ≫では、ダッドの勇み足で大ごとになったんだ。マッド・ドクターとしちゃ、これ以上の騒ぎは避けたいだろう。人形にトラックの運転は出来ないだろうし」
「あ、でも」フリードが口を挟んだ。「ブラックホースって連中がいるんじゃないの?」
 その指摘に、キリは額に手を当てた。
「ああ、その手もあったな。んー……」
 キリは眉を寄せ、少し考えた。指を折って列挙を始める。
「連中は〝ブラックホースの傭兵〟であってマッド・ドクターの私兵じゃない。クライアントはあくまで〝クラウド研究所〟だ。その研究所自体が、もうヤバい。契約が破棄された可能性もある。連中は兵隊であって科学者じゃない。短距離輸送ならともかく、長距離で何かあったら対応出来ない。素性が明らかじゃない連中も多いから、全幅の信頼関係とはいかないだろう。以上を踏まえると可能性は低いとは思う、が」
「が?」
「それを引っ繰り返すカードも一枚ある」
「どんな」とグロム。
「ブラックホース自体が、マッド・ドクターと手を組む」
 三人は唖然とする。キリは呻いた。
「考えてみれば何も、セフィエロじゃなくてもいいんだ。BHにすれば、新兵器プラス兵士強化だ。旨味は大きい」
「でも……リミットがあるのよ? 死んじゃうのよ」とフリード。
「BHの経営陣にとっては、何の障害でもないだろうな。所詮は使い捨てだ」
 平坦に云ってのけるキリに、フリードは二の句を見いだせない。キリは更に考える。
「まあ、どこと手を組むにしろ、モルダニアとはもう破談だ。逃げるしかない。――クマオと姉さんの指摘はもっともだ。頭には置いとく。ただ全部には対応出来ないから……こっちとしては一応、マッド・ドクターは実験体エトセトラと共に移動するだろう、って仮定でいく。で、今云ったように、主要な道路には検問が敷かれる。例えBHが護衛に付いていても、好き勝手は出来ない。ここはモルダニアで、中東じゃないんだからな。無茶な検問突破は避けたいだろうし、出来るだけこっそり逃げ出したいところだろう。じゃ、そういう風に逃げるには?」
「ヘリ……は、ああ、さっきも云ったか。音がするし目立つ」とグロム。
「それにヘリ自体、素人が調達するのは難しい。車とは違うんだ。Aチームじゃないんだからな。BHが直接手配すれば別だが、それでも国境越えは厳しいだろう。荷物を積むとなったら、一機じゃ足りないし。何台もで飛んでりゃ嫌でも気付く」
「そうすると……」
 フリードが、地図に目を落とした。
「……大湖? ――船?」
「それだな」
 キリは頷いた。大湖の真ん中を、指でトンと叩く。
「水域さえ出てしまえば――どの国にでも」

「……だが」グロムは唸った。「それにしても、今度は、船が要る訳だろう。それだって、調達するのは難しくないか」
「いきなりならな」
「あ、じゃあ」フリードが挙手した。生徒のように。「事前から準備してたんじゃないかって事? 正規のルートで?」
「正規かどうかはわからないが。ただ足は着きやすいな。研究所一切合切、となったら、相当デカい船が要る。それこそフェリーか、軍艦クラスの。そんなのをまともに買ったら、書類上の手続き一切無視――って訳にもいかないだろ」
「しかし、そんな物を泊めておいたら、目立つだろう。どこに隠しておけるというんだ」
「それは結界を張っておけばいいんだよ、クマオ。動かさない限りはそれで誤魔化せる」
 ああそうか、とグロムは額に手を当てる。自分に魔法を使う習慣がないので、すぐ失念してしまう。
「でも」フリードは急いで、ジマから聞き出した情報をさらった。
「そんなネタ、この中にはないわよ」
「そこで」キリはアヴァランサに目を向けた。
「ダッドはどうしてる?」
「あいつかい」アヴァランサは面白くもなさそうに答えた。
「奴なら、完全無欠の死亡者リストに入ったよ」
 キリはまばたきした。
「……ふうん?」
「ほら、あの術具。あれを抜いたろう。影響が大きかったみたいだ。衰弱が急激でね。あの後、アッサリ逝っちまった。――もうちょい絞ってやろうと思ってたのに」
「残念だったな」
「結局無茶なのさ。ウイルスだろうが術具だろうが、亜種の力は人類には重過ぎるんだよ」
 アヴァランサは無造作に断言する。――キリはふと、自分の掌を見下ろした。青白い肌。自分は果たして本当に、
「ディベロッパー?」
 グロムの声に、キリは意識を引き戻した。
「……じゃあ、ダッドからの情報はもう、これでおしまいか」
「そうでもない」アヴァランサは、(何故か)苦虫を噛み潰したような顔で答えた。
「枯木≪ジマ≫の死骸と術具。本家に送った」
「何でまた。術具はともかく死体なんて、」
「云ったろ。脳を【あける】術があるって」
 ――キリは酢を飲んだような表情になった。
「……まさか、それ」
「死人に対しても有効でね」アヴァランサは憮然と、口をへの字にしている。
「凄まじく嫌な方法だが、背に腹は代えられない。やり方は聞くんじゃないよ。仲違いしたかないからね。まだ今は」
「……わかった」
 キリは了承した。大体、道を外れた行為なら、キリとてとやかく云えた義理ではない。
「で? その結果は?」
「まだ来てない。さっき尋いてみたが、徹夜でやってはくれたそうだ。今纏めてると――」
 アヴァランサの携帯端末が振動した。老人は番号を一瞥すると、ボタンを押して耳に当てた。亜種語で喋り出す。――人差し指が、フリードのノートPCを指した。
「資料はこっちか」
 フリードがメールソフトを覗く。キリはそんな二人の鬼族を、黙って見守っている。グロムはそのキリを、斜め後ろから見ていた。――どうしても気になった。キリのコンディションが。
「……ああ。ありがとうよ。それじゃ」
 アヴァランサが通話を終えた。
「詳しくは資料を見ろ、とさ。――あっちも相当、グロッキーだった」
「そうか。後で礼を云っといてくれ」とキリ。
「あんたが礼を云う必要はないさ。本当なら、こっちが主体でやる仕事なんだ」
 アヴァランサはぶっきらぼうに云うと、キリを見上げた。
「一つ、かいつまんで云っとくよ。――魔法が使われてた」
 キリは「?」と首を傾げた。アヴァランサは再度説明した。今度は詳しく。
「例の、白の湖≪ラクル・デ・アル≫で使われた、人造鬼族。あれも回収するように頼んどいたのさ。で、調べて貰った。結論。最後には魔法が使われてた。あの枯木は云うに及ばず、だ。術具ってのは魔法そのものだからね」
「つまり……」
「人類を〝患者〟じゃなく、〝鬼族〟にするには、まだ、科学の力だけじゃ無理って事だ」
 キリは眉を開いた。
「何とか間に合う、って事だな」
 アヴァランサは頷いた。
「奴と、ウイルスのアンプルさえ消しちまえば――多少データが残ってても、人類だけじゃどうしようもない。ま、人類に読めるような形式で、記録してるとも思えないがね」
「暗号化か。錬金術師以来の伝統だもんな。けどむしろ、ありがたいか」
 ――要らぬ知識を、世に出さなくて済む。
「姉さん。データの解凍終わったか?」
「終わったけど」ファイルをあけたフリードは、眉を下げた。
「情報量が目茶苦茶多いのよ。玉石混淆の、記憶の断片だから。時間もなかったから、分類もされてないし。どうやって抽出したらいい?」
 半分泣き顔である。キリもディスプレイを覗いてみた。――ぎっしり詰まった文字群に、すぐ目を逸らす。視界がチカチカした。
「……成程ね。記憶を【戴く】ってのは、こういう事なんだな」
 どういう方法なのか、想像も付かない。したくもないが。
「そうなの」フリードが大きく頷いた。「全部一緒くたなのよ。そういう意味でも、出来ればやりたくない方法ではあるわね。目的の日時とか場所とか、わかってればまだ、絞り込みやすいんだけど……」
「……しかしまあ、今はこれしかないからな。やるしかないだろ。まず……」
 プリントアウトの束を取り上げ、キリは指示した。
「そうだな。〝大湖〟で検索かけてみてくれ」
「了解。……あー、駄目。絞り込みにならない」
「それじゃ……」キリは地図を一瞥した。「ここの地名を入れてくれ。海軍の基地があるんだ」
 ……そうやって組み合わせを変える事、一〇回以上。とうとう、それらしき断片を捕まえる事に成功した。
「ドクター・エイリアスが、海軍の……施設部の幹部、フーナップ少将と会った……?」
 ――〝事実〟ではない。ジマが〝聞いた〟だけの、伝聞情報に過ぎない。キリは一つ頷くと、フリードに頼んだ。
「姉さん、少尉に電話」
「え、いいの?」
「一回コールですぐに切ってくれ。折り返しがあったら俺に」
「OK」
 フリードが携帯端末を取り上げる。キリは紙束を置いた。――その時ふと、台所からの物音が耳に入った。振り向く、と。
 グロムが何やら、皿を並べているところだった。
「……クマオ。何やってんだ?」
 あまりと云えばあまりの問いかけに、グロムは目を三角にした。
「何してる、はないだろう。見てわからんか。朝飯の準備だ」
「……作れるのか、飯」
「作れない!」
「何で自慢気なんだよ」
「別に自慢はしてない! ……シリアルくらい、自分で用意しようと思っただけだ。お前らも食うか。と云うか食え。これは旨い。俺が人界で、一番気に入ってるブランドだ」
 どん。とシリアルの袋を、調理台に出してみせる。フリードが可笑しそうに云った。
「あ、そうそう、それね。わざわざリクエスト出して来たもんね、クマちゃん。そのために、結構遠くまで行かなきゃいけなかったのよ、私。感謝してね」
「バラすな! ……や、感謝はしている。と云うか、そんなに遠くまで行ったのか。なら別に、よかったのに」
「だってクマちゃんが御機嫌斜めになって、暴れ出したら困るじゃないの」
「そんな事で暴れるか! ――と云うかそのクマちゃんというのをやめろ」
「ごめーん。もう慣れちゃって」
 ぺろりとフリードは舌を出す。グロムの目が据わった。
「ならお返しに、オカマと呼ぶぞ。それでもいいのか」
 するとフリードも、笑みの種類を変えた。凄味が加わる。口端に犬歯が覗いた。
「あら。全世界のトランスジェンダーを敵に回すつもり? 面白いじゃないの、受けて立つわよ」
 バキバキと手の指を鳴らす。その時アヴァランサが、声を投げ込んだ。
「ちょいとクマ」
「何だアヴァランサ殿まで!」
「用意するならとっととやんな。結局アバタールがやってるよ」
 グロムは慌てて振り向いた。キリがさっさと袋を開けて、皿にシリアルを出しているところだった。グロムは急いで、その手から袋を引ったくった。
「人の仕事を取るな」
「お前が放棄したんだろ、クマオ」
「だからお前もそれをやめろ」
「しつこいねお前も」
「お前らが改めないからだろう!」
「ところでこれ」キリはシリアルを顎で指した。「甘そうだなあ。すっごくいい香りだけど、すっごく甘そう。やっぱ蜂蜜味か?」
「……メープルだ。悪いか」
 ぶすっと答えたグロムに、キリはくつくつ笑った。
「いや? 俺も甘いの好きだし、軍曹も結構甘党だ……った」
 グロムが一瞬立ち尽くす隙に、キリは冷蔵庫を開けていた。牛乳の瓶をグロムに渡す。
「はいはい。自分の仕事だって云うならさっさとやる。――そう云えば」
 キリはさり気なくチョコの箱を出しながら、グロムを見た。
「昨日のパンケーキどうした。食ったか?」
「そ、」
 何故かグロムは、ぐっと詰まった。キリが首を傾げると、フリードが挙手した。
「はいはーい。戴きましたー」
「あれ、やっぱ姉さんが食ったのか」
「まだ冷めてなかったから、食べる? って尋いたんだけどね。クマちゃん、食欲ないって云うから。私とアヴァランサで戴いちゃいました」
 キリは目を丸くして、グロムを見つめた。
「……食欲が? ない? お前が?」
「おい。何だその、俺=食欲魔人の図式は。いつの間にそんな事になったんだ」
 そこまでガッついた覚えは、グロムにはない。
「いや、だって……なあ?」
「何が〝なあ〟だ」
「――アバタール。あんたがヘコんでたのに引き摺られたらしいよ、この熊は」
 アヴァランサが無造作に投げ込んだ声に、グロムは目を剥き、キリは嫌そうな顔になった。
「俺は別に!」
「……別にヘコんでませんけど俺は」
 フリードが呆れた顔になる。アヴァランサは肩を竦めた。
「そう思いたきゃ思っとけばいいさ。ま、何にしても、あのパンケーキは旨かったよ。馳走になったね」
「あ、うん。とっても美味しかった。御馳走様あ」
 フリードも笑顔になって云う。それを聞いたグロムが、そこはかとなく無念そうな表情になる。それを見て取り、キリはつい、肩を揺らしていた。――デカい子供を見ている気分だ。
「泣くな泣くな。別にあれが最後って訳じゃない」
「泣いてないだろう! お前の目はどうなってるんだ!」
「怒鳴るなっての。――また作ってやるから。取り敢えず今は、シリアル食べとけ。チョコもやるから」
「要らん!」
「あ、そう? よかった」
 キリはしゃらっと笑い、自分でチョコをくわえた。結局、独り占めしたかっただけである。
「ほらほら、さっさと席着いて食おうぜ。いつどんな連絡が来るかわからないんだ。食える時に食っておかないと」
「あ、ああ」
 四人はそれぞれの席で、シリアルを口にし始めた。――その間もアヴァランサとフリードは、ひっきりなしにメールを打っている。軍隊関連の情報をダイレクトに得るのは難しい。だが亜種の間で何かないかと懸命なのだ。アヴァランサは送信ボタンを押した後、じろりとグロムを見やった。
「ところでグロム。助っ人の件、ちゃんと本家に念押してあるんだろうね」
「……ああ」
 グロムはシリアルを飲み込んだ。
「アウストルの居場所が判明したら、連絡する」
「それじゃ遅い」
 アヴァランサは一刀両断した。
「〝熊〟の本家は、青霧山脈の奥の奥だろうが。そんなんじゃ絶対間に合わない。と云うか、今からでも間に合わないかも知れないじゃないか。もう呼んどきな。宿泊費用ならこっちが持つ」
 速射砲のように告げるアヴァランサに、グロムは頷いた。――それを見ていたキリは、スプーンを置いた。
「せっつくな、婆さん」
「何だって? ――けどなアバタール。今も云った通り、〝熊〟の本家ってのは遠いんだよ。呼んでも間に合わないんじゃ意味がない――」
「間に合うとか間に合わないとかじゃなくて」
 キリは淡々と云った。
「〝熊〟の助っ人は来ない。……違うか? クマオ」
 グロムが凝固し、アヴァランサは唖然とした。

「……ちょっと待ちなアバタール! どういう理由で――」
「何を根拠に――」
 鬼族の長老と〝熊〟が、同時に声を上げた。キリは聞き返さなかった。フラットに続ける。
「根拠は特にないよ。ただ何となく、ずっと、妙な気はしてた。婆さんはしょっちゅう、本家と連絡取ってるのに、クマオが同族と話してるのは見た事ない。で、変だと思ったのは、昨日だな」
「昨日?」
 グロムが〝しまった――〟という表情になるのを、キリは見て取った。
「随分動揺してたからさ。【そういう】奴を見た事があるのかと」
 キリはシリアルを口に運んでから、グロムを見やった。
「暴走しやすいのか? 〝熊〟っていうのは」
「そんな事は……ない」
 しかしグロムの声は、いつもに比べて力感を欠いていた。当たらずとも遠からず、なのだろう。キリは肩を竦めた。
「後は……これは完全な推測だけどな。鬼族と似たようなお家事情なんじゃないか? クマオとそれ以外の奴の力量差があり過ぎて、助っ人にならない、とか。死ぬとわかってたら、出せるもんでもないだろう」
「――そうなのかい」
 これ以上ない険しい目で、アヴァランサがグロムを凝視する。グロムは諦めたように答えた。
「人選が進んでいない。それは確かだ」
「……この馬鹿!」ドン! とアヴァランサは、拳をテーブルに叩き付けた。
「何でもっと早く云わない! 今からじゃ、都合が付けられないだろう!」
「云ったところで、どこも助っ人など出さない!」
 グロムも反射的に、云い返していた。
「わかって――いる筈だ、アヴァランサ殿。どこもこの件には、関わりたくないんだ! 盥回しの挙句、〝熊≪うち≫〟が引き受けた。引き受けるしかなかっただけ――だが、それでも、俺自身は、この任は重要だと思ってる。〝熊〟のためにも、亜種全体のためにも、やり遂げなければならない事だ。だが他の種族は――」
「肯定感もあるからだ。マッド・ドクターのやる事に」
 キリがアッサリと引き取った。鬼族二人が絶句する。グロムは歯軋りして顔を逸らした。キリはシリアルをぱくつきながら、平然と話を続ける。
「人類に減って欲しい。亜種は皆、そう思ってる。多かれ少なかれ。――だろ」
「そんな事――」
「いいんだよ姉さん。反論出来る立場じゃないからな、俺はね。世界中で、戦争してきた側なんだから。ただ、この手の兵器が軍隊に渡ったら、真っ先に犠牲になるのは――弱い立場の奴だ。例えば」
「……例えば?」とフリード。
「難民キャンプとか」
 フリードは凍り付く。キリも嫌そうに続けた。
「発症率一〇〇%、ゾンビ化――とは云わないだろうな、誰も信じないから。凶暴化して手が付けられない、治療手段なし、感染拡大中――この条件なら、地域丸ごと空爆しても、誰からも文句は出ない」
「……」
 鬼族の青年は、真っ青になっている。グロムも言葉を失くしていた。
「他にも色々、色々、使い方は考えられる。幾ら俺でも、今みたいなのは流石にゾッとしない。それはもう戦争でもない。虐殺だ」
 カチン、とスプーンが皿の底を打った。
「それにこれは、前にも云ったが。亜種だけが無事でいられる保証なんか、どこにもない」
 フリードがヒュッと息を飲んだ。アヴァランサが更に苦い顔になる。
「大体ウイルス兵器なんて、コントロールしきれるもんじゃないんだ。マッド・ドクターがどれ程優秀でも。感染する途中で変異する可能性は高い。亜種にも――【鬼族にも】感染する怖れは、充分ある」
 フリードがアヴァランサを見た。〝本当に?〟と目が云っている。アヴァランサは首を振った。
「わからないんだよ、それは。本当に。ただ可能性として、低くない気はしてるよ。何しろあの……馬鹿だからね」
 同族を何人も殺して、逃げ出した男。同族が感染して患者化しても、特に痛痒は感じないだろう。――孫の事をそんな風に云わなければならないアヴァランサに、フリードは痛ましげな顔になる。
「〝熊〟がそれを見越してるんなら、ある意味慧眼だが」
 キリが呟く。グロムは唸るように云った。
「そこまで考えているのかどうかは、知らない。ただ……」
「ただ何だい」とアヴァランサ。
「……どちらにしても。俺が失敗すれば、〝熊〟も亜種も終わりだと」
「〝熊〟の命運、一人で背負ってる訳か。気の毒に」とキリ。
「そんな事は思っていない」
 グロムはそこは、強く断言した。
「強さには責任が伴う。当然だろう。それに――苦労しているのは、俺ばかりではない。郷≪さと≫にいる者も、その力量に合った責任を負ってるんだ。俺一人が全部抱えてる訳じゃない」
「……偉いね、お前さんは」キリはコーヒーに口を付けた。「お前さんの爪の垢を煎じて、人類の偉いさんに飲ませたいよ」
「ね、ねえ、じゃあ」フリードがやっと、口を挟んだ。
「それって他の種族にも、伝えなきゃいけないんじゃないの? 今からでも――」
 それを受けて、キリはアヴァランサを見た。長老は頷いた。
「警告は出した筈だ」
 フリードは愕然とした。
「それでも動かないって云うの? どこも?」
「実感出来ないんだろう。残念ながら」
 キリは静かに云う。フリードは顔を歪めた。
「じゃあ……私達だけで、やらなきゃいけないの? そういう事?」
「だけ、って事もない」キリはそれもまた、否定した。「沢山いるだろ。姉さんやクマオに協力してくれた亜種は。それがそいつらの生業なんだろうし、直接の戦闘には無理でも――だけ、って事はないさ」
 それに――とキリは云いながら、フリードの手許にあった携帯端末へ、素早く手を伸ばした。取り上げる。着信の振動があったのだ。番号を一目見て、ニッと笑う。
「絶滅危惧種並の馬鹿も、まだ居る」

『もしもし。リークォラ殿?』
 ――ザパダの声がした。やや遠いが、会話に問題はないだろう。聞いた事のない名だが、フリードの偽名らしい。キリは簡単に返した。
「よう少尉。調子はどうだ」
 一拍の間。そして。
『最高です。そちらはどうです、五十嵐中尉』
 全く最高ではなさそうな声音。キリは苦笑した。
「任務御苦労さん。苦労ついでに、一つ協力を頼みたい」
『内容によります。――次の場所に移動します。手短にどうぞ』
「〝月の湾≪ゴルフル・ルニィ≫〟の基地から、廃棄された軍艦がないかどうか、調べてくれるか。期間は……」フリードがノートPCを回し、データを表示する。「……から半年間。フーナップ少将が任官してる間だ。出来ればその後どうなったか、までわかるとありがたい」
『承知しました』
 一切問い返さず、ザパダは請け負った。更に。
『大湖も監視を強めるよう、進言しておきます。何かあったら知らせます』
「……お前さんは本当に優秀だよ」
 溜息のようにキリは告げた。そして。
「ザパダ少尉」
『はい』
「――ありがとう」
 返答の前に、キリは通話を切っていた。答えの想像は付いていたし、聞けば更に返したくなってしまう。その時ではなかった。もう。
 ふっ、と息を吐き――キリはふと、顔を上げた。三人の亜種が三様の表情で、彼を見つめていた。キリはまばたきした後、苦笑いを見せた。
「何だよ? 俺は何か、感動するような事云いましたかね?」
 グロムが真っ先に目を逸らした。黙々と食事を再開する。アヴァランサは携帯端末の画面を一瞥すると、立ち上がった。荷物が届く、と云い残して。キリは自分の皿を片付け始めたが、フリードがまだ、そんなキリを凝視していた。キリは再度苦笑した。
「どうした姉さん。惚れたか? 悪いけど俺は一応、ヘテロセクシャルでね。口説かれても応えられないぜ。それは勘弁な」
「わかってるわよう。そうじゃなくて」フリードは真顔で云った。
「貴方が殊勝だと、かえって心配」
「……俺そんなに、ふざけてますかねえ」
 その言にグロムが目を剥いたが、キリはさっさと台所に向かっていた。皿を洗い始める。そこにグロムが声をかけた。
「ディベロッパー」
「んー? 何だクマオ、皿は自分で洗えよ」
「いや、是非頼みたい」
「――は?」
 予想外の返答に、キリは目を丸くして振り向いた。グロムは真面目な顔で告げた。
「お前の飯を刈って来る。なので、皿を頼みたい」
「……まあ、そういう事なら……と云うか、それなら俺が自分で、」
「お前は出歩くな」
 グロムはキリに指を突き付けた。
「お前が外に出ると碌な事にならない。大人しく寝ておけ。エネルギーを無駄遣いするな!」
 ――云うだけ云って。グロムは足早に、リビングを出て行った。キリがぽかんとしていると、フリードがふうっと息を吐いた。やれやれ、と首を振る。
「素直じゃないんだから」
「……何の話?」
「クマちゃんよ。割と本気で、心配してるわよ。貴方の事」
「そりゃ、貴重な戦力だからな。助っ人が見込めないんだから余計だろ」
「そういう意味だけじゃ、ないんだけどね……」
 フリードはひょいと立ち上がると、キリの手から皿とスポンジを取り上げた。
「後片付けは私がやっとくから。中尉さんは寝てて」
「……俺、病人じゃないんですけど」
「ある意味病人だと思うわよお。だって何にもしてないのに、どんどんエネルギーが目減りしていくんだもの。胃に穴でも空いてるんじゃないの?」
 フリードは拳を作って、とん、とキリの胃の辺りを打った。――キリはふと真顔になると、その辺りを押さえた。
「……そうか。そうかも」
「え?」
「いや、マジで、どっかに穴空いてるのかも。婆さんに相談してみるか」
「ええ? 冗談のつもりだったんだけど。もしかして瓢箪から駒?」
「かも知れない。――サンキュー姉さん。それじゃ、ありがたく、片付け任せていいか」
「勿論。――あ、ハンサムさんから電話あったら呼ぶから」
「了解」
 キリは軽く笑って、リビングを出た。

「婆さん。おーい、どこに……」
 廊下でキリが、ぐるりと部屋のドアを見回していると。ドアの一つがあいて、アヴァランサが出て来た。小箱を持っている。
「何だいアバタール」
「ん、ちょっと、尋いてみたい事が……それが? 届いた荷物?」
 そちらの方を先に、キリは尋ねていた。アヴァランサは頷いた。
「ああ。転位で送って貰った。あんまり使わない方法だが、急ぎだからね」
「何を?」
「呪文石板≪スペルカード≫」
 キリは左目をぱちくりさせた。
「スペル……何?」
「呪文石板。術具だよ。呪文が込められてる。魔法の補助具として使う」
「それこそ、転位とか?」
「使える奴は少ないがね」
「ふうん――」キリはまじまじと、アヴァランサの手中の小箱を見つめた。
「それ、俺でも使えたり……」
「する訳ないだろアホウ」
 髪の毛一本入る余地もなく、答えが返る。キリは神妙に頭を下げた。
「はい失礼しました。――とまあ、与太はともかくとして。具体的に、どういう感覚なんだ? その、呪文石板を、使える/使えないの区別って」
「そうさね」アヴァランサも少し考えた。「例として、火系の術を挙げようか。炎を出現させる術なんだがね。マッチやライター程度なら、誰にだって扱えるだろう。でもド素人が、いきなり火炎放射器を使えるかい、元傭兵。下手すりゃ自分が燃えちまう」
「……ああ」キリには納得しやすい例えだった。「つまり強力な術を扱うためには、やっぱりそれなりの技術や力量が要る、と」
「ああ。ましてや【こいつ】は」アヴァランサは小箱を、軽く叩いた。「普通は使わない。禁忌に近い呪文だ。あんたじゃ成功しないし、その上確実に死ぬ」
「使い損かよ。……どんな呪文だ」
 怖ろしげに肩を竦めたキリに、アヴァランサは無造作に告げた。
「デス・スペル」
「……何?」
「デス・スペル。死の呪文だ。今も云ったが、普通は使わない。剣や銃で殺した方が早いからね。労力も要らないし。……それが通じない相手に使う。当然、使う力も半端じゃない」
「……死ぬのか?」
「必ずしも死ぬとは限らないがね。レベルの低い奴ならまず死ぬ。上級者でも、寿命が縮むのは間違いない」
「ちょっと待てよ」キリは片手を上げていた。「婆さんの寿命が縮んだら、やっぱり死ぬんじゃないか」
「馬鹿にするんじゃないよ若造が。そんぐらいの余生は残ってる」
 目をつり上げて云うアヴァランサに、キリは口許に手を当てていた。三秒考え、――真面目な顔になってアヴァランサに提案する。
「……婆さん。一つ、思い付いた事があるんだが」

 ……グロムは雑草の束を抱えて、階段を登った。寝室のドアをノックしかけて、――結局やめる。音を立てないようにノブを回し、静かにドアを開ける。
 ベッドに横になった、キリの背中が見えた。
 グロムは無言で、籠の草束を入れ替えた。その時、
「クマオ」
 予想はしていた。それでもギクリとした。キリがむくりと起き上がり、グロムに顔を向けた。
「よう。悪いな、いつも」
「……それ程でも、」
「悪いついでに、一つ頼みがある」
 キリの表情も、声音も、いつも通りだ。飄々と軽い。だがそれを額面通りに取る事は、もう出来ない。グロムは口をへの字にした。
「断る」
「……まだ何も云ってませんが」
「どうせ碌な頼みじゃないだろう。飯とチョコとコーヒー以外はお断りだ」
「お前さんもだいぶん、俺に慣れて来たねえ」
 感心したように云われ、グロムはかえってガックリ来た。――慣れたのか。全然嬉しくない、
 ――ないのか。本当に。
「しかしまあ、お前以外に頼める奴がいない。勝手だと思うが云っとく」
 キリは先に進んでいる。グロムは気を取り直した。
「だから断ると――」
「もし俺が発症したら、お前が殺れ」
 ……実に簡単に、キリは告げた。おはよう、と云うのと全く同じトーンで。

「……お前は」
 グロムは渋柿を食べたような顔で、キリを睨んだ。
「断る、と云ったろう。勝手に頼むな」
「だから勝手は百も承知だよ。他にいないんだよ。まさか婆さんには頼めないだろ」
「自分でやる、と云っていたぞ。アヴァランサ殿は」
「阿呆。俺が駄目になったら、誰がマッド・ドクターを殺るんだよ。婆さんもあれで、もう余力はないんだ。持ってる力は全部、マッド・ドクターにぶつけて貰わなきゃならない。お前なら、俺を殺っても余裕だろう。体力と腕力なら、お前がぶっちぎりだ。だから頼むと云ってる。いや、命令だ。殺れ」
 ……グロムは拳を握り締めた。この男は、
「お前に命令される筋合いはないぞ! 大体――俺の気持ちはどうなる!」
「知るか」
 心臓をハンマーでぶち抜かれたような気がした。
 凝結して立ち尽くすグロムに、キリは淡々と続けた。
「仕事だろ。気持ちは関係ない。請け負った以上はやれ。嫌なら降りろ。降りたところで、先には何もないけどな」
 これ以上ない程的確に、嫌なところを抉って来る。グロムは歯軋りした。頭が沸騰しそうだ、
「……発症したら、だな」
「ああ。発症したらだ」
「……俺は」
 グロムはドアに向かいざま、キリに指を突き付けた。
「今すぐにでも! お前を殺してやりたい!」
 バタン!
 大きな音を立てて、グロムは寝室を出て行った。キリは驚かなかった。軽く肩を竦める。殴られなかっただけでも上出来だ。大人しく殴られてやる気もなかったが。
 再び、どさりと横になる。ドアに背を向けて、キリは目を閉じた。

 ――夕刻前。ザパダから連絡が入った。
 月の湾≪ゴルフル・ルニィ≫の基地から四箇月前、輸送艦が一隻、廃棄になっている。だが廃棄物が、まだ回収されていない。
 廃棄業者の所在地は、肋骨≪ネルヴーラ≫湖岸の端。ただし実態は不明――。
 ――メールのプリントアウトを一瞥して、キリは簡単に断言した。
「行くぞ」
〈続〉


■……そんな訳で、パンケーキはフリードとアヴァランサの胃に収まっていたのでした……。さあ! グロムはパンケーキにありつく事が出来るか!(違う)

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