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ディベロッパー・ジェネシス/インターフェロン06(後)

 ……あの時は。雪が降っていた。
 グロムはまだ幼かった。もっと幼い子供達と、雪合戦に転がり回っていた。そこに現れた、一族の大人。
 【それ】が一体どういう事か、すぐには理解出来なかった。
 ――血縁でこそなかったが、よく知っていた。優しい〝小父さん〟だった。その〝小父さん〟が。
 瞳孔がひらいていた。完全に常軌を逸した目。その時はそんなセンテンスは、頭に浮かびもしなかったが。ただ直感した。これはいつもの〝小父さん〟ではないと。咄嗟に子供達に、逃げろ、と叫んだ。背後から〝小父さん〟の足音が迫る。恐怖で足が竦んだ子供を、反射的に庇っていた。覆いかぶさる。殺される、と思った――
 別の足音と、肉を断つ音と、断末魔が聞こえた。
「グロム」
 兄の声がした。
「見るんじゃない。その子を連れて、早く」
 グロムはこくこくと頷き、子供を抱き締めたまま立ち上がった。何が起きたか、見ないでもわかる。泣きじゃくる子供の頭を、自分の胸に押し付けて、グロムは走り出す――寸前。
 振り向いていた。
 小父さんがゆっくり、倒れるところだった。胸に大きな穴が空いていた。その前に立っていたのは。
 兄だった。
 右手が真っ赤だった。
 グロムは一度ギュッと目を閉じると、全力で集落へと駆けていった。

 ――〝熊〟が【遺伝的】に、精神に異常を来しやすい――という訳では、【ない】のだという。
 〝熊〟は全体として、大らかで素朴な気質だ。その分単純で、頭に血が昇りやすい、という傾向もあるが。おおむね気の好い者が多い。だがそれだけに――
 〝戦士〟の役割を担った者は、気に病んでしまう傾向がある。その素朴さ故に。最後には完全に、暴走してしまう事さえ。しかし〝戦士〟を育てない訳にはいかない、という亜種の事情もある。〝戦士〟には、戦技以上に、精神的なタフさが求められる――それが〝熊〟の、〝戦士〟を選抜する際のガイドラインだった。それをグロムは、自分が〝戦士〟に選ばれた時に知らされた。〝熊〟が特に混血に力を入れ、敬意を払うのも、同様の理由だった。混血の方が暴走しにくいという傾向があるからである。
 ……あの日の夜を、思い出す。
 歳の離れた兄は、グロムにとって、父親と同じだった。その広く大きな背中が、丸まっていた。黙って暖炉に当たる兄。普段ならその背中によじ登って話をねだるグロムも、その時は一言も、声をかけられなかった。自分も背中を丸めて、少しだけ、泣いた。
 〝小父さん〟と兄は、親友だった。
 そして兄は、戦士の役を降りた。

 ……昔の事だ。随分と昔の。
 どうして今、あの時の事を思い出したのか。
 ――理由はわかっている。考えるまでもない。
 似ているところなどまるでない。兄と、あの軽薄な男の間には。それでもオーバーラップする。唯一無二の友人を、相棒を、自分の手で葬らなければならなかった立場。何も見せない、何も語らない。兄もあの男も。見えるのはただ背中だけだ。そして。
 自分には何も出来ない。
 それを、思い知らされる。

 ……夜道を、カーゴトラックが疾走していく。運転席にはフリードが着いている。キリとグロム、アヴァランサは、後方の荷台で、黙々と装備を身に着けていた。
「お前はまたどうして、コートなんだ。邪魔じゃないのか」
 グロムはつくづくと呆れた声で、キリに問いかけた。――キリは相変わらずの、コートと帽子という出で立ちだったのだ。右目は、四角い絆創膏≪バンテージ≫で覆っている。目はともかく、確かにどう見ても、戦闘向きではない。
「目印だよ」
「だから何で目印が要るんだ。わざわざ見付けてくれと云ってるようなものじゃないか」
「云ってるんだよ、見付けてくれって」
 グロムは絶句する。キリはその間にも次々と、武器を服に仕込んでいく。プラスチックのカードのような物は、爆弾だという。手榴弾のような個別起動も、遠隔起動も出来るという説明だった。自分の分を受け取りながら、グロムは尋いていた。
「……どういう意図だ。まさか相討ち狙いじゃないだろうな」
「んな訳ないだろ」
 キリは些かうんざりしたように、グロムを見た。
「でも、まあ、引っ張り出す意図はあるよ。とにかく、隠れられたり逃げられたりしたら終わりだからな」
「しかし、食い付いてくれるかい。逃げようって時なんだよ」
 アヴァランサが問う。キリは顔をしかめた。
「さあ、五分五分かな。ただ俺は――まだ奴は、俺を、捕まえたいんじゃないか、と踏んでる。とにかく、わからない事が多いからな。特に、どういう条件なら、感染しても生き残れるのか。それは知りたいだろう。――天邪鬼が条件だったりしたら、厄介極まりないぜ?」
「違いないね」
 キリの冗談に、アヴァランサは真顔で答えた。
「クマオ。そら、お前も。これ持って行け」
 キリがホルスターを差し出した。それには、イングラム・マック10が収まっていた。サプレッサーは着いていない。グロムの体と比すと、ハンドガンのようにも見えた。グロムは怪訝な顔になった。
「マシンガン? 何故」
「何が来るかわからない。人形、人造鬼族、もしかしたらブラックホースかも。備えあれば憂いなしだ。ロングレンジの武器も持っとけ」
 マガジンも数本、差し出される。グロムはそれを眺めた後――ずい、とそれを押し返した。
「いい。要らん」
「あのな」
「使い方がわからん」
「……セーフティ外して引鉄引けば、弾は出る。それだけだぞ」
「どうせモタつく。オタオタしている間があったら、接近して殴り倒す。その方が確実だ」
 グロムの〝殴る〟は〝殺す〟と同義である。キリは肩を竦めた。
「……俺は、持ってくのを勧めるがね」
 その時運転席から、フリードの声がした。
『あと五分で着くわ』
 キリは〝熊〟と鬼族長老を等分に見やった。
「手順はわかってるな」
「当然だ」「今更だろうよ」
 二人の返答に、キリは頷いた。
「婆さんは結界。クマオは制御室。俺は爆弾を仕掛ける。マッド・ドクターは、遭った奴が殺れ」
「了解」「わかってる」
「仕留めたらメールで連絡。即撤退。逃げ道は各自、適当に何とかしろ。他の奴の事は考えるな。自分が逃げる事を優先。逃げ遅れた奴がいても、助けようとは思うな。見捨てろ。以上」
 冷酷と云うより、無味乾燥だった。事務的に告げられたそれに、しかしもう誰も驚かなかった。フリードの声がした。
『着いた』

 ……廃棄業者の工場がある、とされている、肋骨≪ネルヴーラ≫湖岸。湖岸線が深く入り組んでいる事から、この名が付いた。書類上の住所には確かに、それらしき工場があった。しかし操業している気配は感じられない。船影も見られない。
 アヴァランサは目を赤く輝かせ、船渠≪ドック≫を注視している。キリは反対に、沖を眺めていた。――やがて低く告げる。
「巡視艇が引いた」
 ――キリがザパダに電話した後から、軍は大湖の巡視を強化していた。それが消えた。フリードの端末に、メッセージが入る。
「ハンサムさんからよ。〝幸運を祈る〟ですって」
 キリは苦笑して、ハンチングを直した。――気の利いた返答を、思い付けなかった。そんな段階は、とうに過ぎている。
「動き出した」
 今度はアヴァランサが告げる。キリとグロムは、ドックに目を転じた。やはり何も見えない――いや。
 妙な違和感。景色が若干、ズレているように感じる。確かに――何かが動いている。ゆっくりと。
 ――軍の巡視艇が引く。〝誘い〟だと、気付いてはいるだろう。アウストルも。だが乗らざるを得ない。永遠にモルダニアに、逼塞している訳にもいかないのだから。
「ほとぼりが冷めるまで、待つかと思ったが」とグロム。
「クライアントに見捨てられる。【ただ】逃げるだけならともかく、研究には資金が要るからな」とキリ。
「さ、行くわよ。乗って」
 フリードがリジット・ライダーを波に浮かべた。

 ……航跡が水面に、波紋を広げている。リジットは静かに、それを追っていく。成程な、とグロムは呟いた。確かに不自然だ。
 キリはタブレットに目を落としている。――やがて一つ、頷いた。
「モルダニアの水域を抜けた。水深も充分」
 それを受けて、アヴァランサが動いた。呪文石板を取り出す。六枚。
「――〝散≪さん≫〟」
 バッ、と石板を宙に放る。石板は二つに割れ、更に光の球に変わった。鳥と魚――のように見えた。六つは水中へ、残りは夜空へと消える。アヴァランサは印を結び、最後に手を打ち合わせた。
「〝結≪けつ≫〟」
 光の糸が、空を縦横無尽に走り――消えた。
 何も起こらない。かのようだった。だが。
 湖面が白く、霞み始めた。
 霧だった。俄に白い霧が、湧き立ち始めたのである。それは見る見る内に、辺りを覆い尽くした。視界が真っ白になる。
 パチッと、プラズマがはじける音。
 バシッ! バチバチバチバチッ――!
 激しい火花と共に、〝隠形〟が剥がれ落ちた。輸送船が姿を現した。

「気が付いたわよね」
「勿論」
 フリードの呟きに、キリが応じた。フリードは眉を寄せている。
「随分アッサリしてない? 私達が追って来るって、思ってなかったのかしら」
「いや、予測済みだろう」
「何の対策もしてないなんて。舐められてるの私達?」
「それも、違うと思うね。こっちには婆さんがいる。直接術をぶつけられたら敵わない――って自覚はあるんだろ」
「囮……だったらどうする?」
「その時は仕方ないな。鬼族の追跡班と転位班に、フル稼働で頑張って貰うしかない。でもその連絡は、しないでよさそうだ」
 嫌そうにキリは云う。フリードは目を瞠った。
「わかるの?」
「何となく。――だろ、婆さん」
「ああ」
 アヴァランサも唸った。鼻の頭に小皺を寄せて。
「居るよ。ダミーじゃないね。やりなグロム」
 グロムは無言で、船底からそれを掴み出した。無造作に構える。
 銛だった。かなり重くて頑丈そうな。
 ビュッ――!
 グロムが全力で投げたそれは、間違いなくスクリュープロペラの間に突っ込んだ。鉄がひしゃげる嫌な音。だがそれと同時に。
 銛の尾についていたワイヤが、スクリューに絡まった。

「もう一本」
 キリが平坦に指示する。グロムは二本目の銛を掴んだ。構えて引く。
 投擲。
 人類では有り得ない距離を飛んだそれは、今度も違わずにスクリュープロペラを直撃した。
 途轍もなく不快な音と共に、スクリューが完全に止まった。

「このまま爆弾放り込んで沈めちゃう……って訳にはいかないのよね?」
 リジットを輸送船に寄せながら、フリードが控え目に問うた。フック・ガンを取り上げたキリは、真顔で尋き返した。
「それでマッド・ドクターがくたばった、って思えるか? 姉さん」
「思えない」
「だろ」キリは頷いた。「直接殺さないと安心出来ない。――婆さん、結界のリミットは三時間だったな」
「ああ。だからさっさと行きな」
「行くよ。婆さんも、呼吸が整ったら後から来てくれ」
 バシュッ。微かな空圧音と共に、フックが撃ち出される。爪は舷側に引っかかった。固定を確かめ、キリはハンガーを掴んだ。ぐいと引いて膝をたわめる。ストッパーを外すと同時に、跳躍する。
 リールが勢いよく巻き上がり、コート姿はあっと云う間に、船上へと消えた。アヴァランサが、手を目の上に翳して呟く。
「慣れたもんだね」
「こういう事に関しては、流石だな」
 グロムも同意した。せざるを得ない。
 ハンガーがするすると下りて来る。次はグロムが、それを掴んだ。跳ぶ――前に、鬼族の長老を振り向く。
「アヴァランサ殿、」
「いいからとっとと行きな。面倒な話は後だ。時間を無駄にするんじゃない!」
 アヴァランサに叱咤され――グロムも船底を蹴った。

 ――グロムが上がって来るのを待ちながら、キリは辺りを警戒していた。気付かれている筈だ。絶対に。しかし動きはない。待ち構えているのか。中で。
 ガシャン、とリールが巻き上がる。グロムが手摺を乗り越えて来た。キリは無言で、船橋≪ブリッジ≫を指差した。グロムは頷き、走り出そうとした――その前に。
「クマオ。ちょっと待った」
「何だ」
「持ってけ」
 グロムは目を丸くした。キリがコートの下から取り出したのは、ホルスターに収まったイングラムだった。それにマガジン。
「持って来たのか。お前、自分の武器は」
「それも持ってるよ。ああ重かった」
「要らないと云ったのに」
「そう云うなよ。気になったんだよ、何となく。とにかく持ってってくれ。俺はこれ以上は持ってけない。重くて」
 しゃらっと云ってのける。グロムは気を切り換えた。押し問答している場合でもない。
「わかった。一応持っておく」
 ジャケットの下に、ホルスターを着ける。キリはそれを見届けると、するりと動いた。【下】への出入口へと足を向ける。
「じゃあな、クマオ」
 軽い笑みと共に告げられたそれに、グロムは一瞬ぎくりとした。これっきり会えなくなるような、そんな気がしたのだ。思わず声を投げる。
「ディベロッパー!」
 しかしその時にはもう、コートの背中は出入口へと消えていた。振り向きもせず。グロムは首を振った。――考えている時間はない。一秒でも早く仕事を終える。それが今の最適解だ。
 グロムは船橋への階段へ侵入した。

「いったん上がってまた下る、っていうのも、何だか間が抜けてるけどな」
 一人、軽口を叩きつつ、キリは階段を下りていく。――フリードが云ったように、外から爆弾を放り込んで終わりに出来るなら、随分と楽だったのだが。
 スチールの、細く狭い階段。カンカンと、金属音が響く。キリは敢えて、足音を殺していなかった。――来てくれれば、探しに行く手間が省ける。もっとも、
「真打ちはなかなか、登場してくれないか」
 ――カン。
 その階段を下り切る。一八〇度回って更に下り――
 ずに、キリは九〇度で水平移動した。直後。
 チュイン!
 金属の柱に弾丸が炸裂し、火花が散った。もしそのまま下りていたら、頭部があった筈の空間を通過して。――キリはひらりとコートを翻し、走り始めた。一瞬のラグもない。見えていた、というように。
 周囲で一斉に、影が動く。こちらも流れるようだった。一般人の目では、捉えられなかったかも知れない。それ程密やかで、素早い動きだった。キリはちらりと左目を動かし、口端を上げた。
「おいおい。どこが報酬払ってくれるんだよ?」
 それが生身の人類による部隊――ブラックホースの傭兵達だと、キリは見て取っていたのである。

「……?」
 階段の踊り場で、グロムは首を傾げた。
 制御室を破壊する。それがグロムの、第一の役割だった。それを果たすべく、グロムは真っ直ぐに制御室に向かっている。我ながら能が無い、とは思ったが、他にいい手もなかった。ディベロッパーならば幾らでも、裏技を駆使するのだろうが。
 ともあれ、正面突破である。相当数の兵が配置されているだろう――と、覚悟していた。のだが。
 無人だった。
 グロムはかえって慎重になっていた。そうさせて時間稼ぎか、とも考えたが、大した〝稼ぎ〟にもなるまい。何が目的だ?
 警戒しつつ進む。階段を登り、上の階へと踏み込む――
 ――ぐにゃり。
「!?」
 奇妙な感触が、体を通過した。逆だ。何かを通過した――
 思わず振り返る。何もない。ないが。
 行く手に目を転じる。こちらも何もない。無人のままだ。しかし。
 グロムは床を蹴った。階段を、三段飛ばしで駆け上がる。上階へ飛び出す――
 同じ階だった。
 階数表示が変わらない。グロムは歯軋りした。〝無限≪ループ≫〟の術だ。アウストルが張った結界に、飛び込んでしまった……!

 着弾音が連続する。火花が降り注ぐ中、キリは機材の間を疾走する。聴覚は、周囲で移動する足音を拾っている。そのスピードが――
(速い)
 キリが覚えている〝人類の速度〟を、確実に上回っている。キリが更にそれより速いために避け得ているが、通常人類であれば五秒と持たず死んでいる。人間業では有り得ない。これは――
(鬼族化してるな)
 しかしBHの傭兵が、死ぬとわかっているウイルスを、【この作戦で】受け入れるとは考えにくい。気配も違う。〝白の湖〟で使われた〝人造鬼族〟とは。勿論〝患者〟とも。――という事は、
「ダッドと同じか」
 術具を使った、力の底上げ。アヴァランサは、せいぜい二割、と云っていた。本物の鬼族には及ばないと。だがそれを、数とチームワークで補う事は可能だ。それに一人倒すために、二割分、余計な労力が必要になる。厄介な事には違いない。
 着弾音が続く。しかしそれは、キリの影をはじくだけだった。実体に届かない。――それに業を煮やしたか、フォーメーションが僅かに変わった、
 ガガガッ! 見当違いの方向で着弾音が立った。だがキリは反射的に、強く床を蹴っていた。速度を上げる、
「!」
 間に合わなかった。バッ! 二の腕から血が噴いた。――跳弾を利用したのだ。流石に素人とは違う。
 前方に人影が飛び出した。キリの負傷を見て、逸ったのだ。焦るな――という声が聞こえた気がしたが、キリに〝彼〟を逃がしてやるつもりはなかった。
「!?」
 ――兵は目を剥いた。濃灰のコートが一瞬ぶれた、と思った瞬間、眼前に片目の男がいたのだ。理解出来なかった。何が起きた――
 ドン! 心臓を強烈な衝撃が叩いた。
 自分の胸にナイフの柄が生えているのを、兵は見た。
 ぐらりと倒れる。後ろに。――階段だった。
 濃灰の幽鬼が、ナイフを引き抜きながら、自分の上を跳躍していくのが見えた。
 兵は狭い階段を転がり落ちた。下の階に叩き付けられた時は、既に息は絶えていた。

 ――自分が殺した兵の更に先に、キリは着地した。そのまま、入り組んだ通路の奥へと走り込む。
「くそっ……!」
 BHも下階へと走る。だが階段の途中で、隊長は音高く舌打ちしていた。
「【またか】――安全装置を掛けろ! 銃は使うな!」
 キリが逃げ込んだ先は、機関室だったのだ。隊長は歯軋りする。【わかっていたのに】――阻止出来なかった。

 ――制御室に向かおうとしていたグロムもまた、舌打ちしていた。
「くそっ……どうすれば、」
 この類の〝迷宮〟を破るには、どうすればいいのだったか――レクチャーを受けた事はあるが、だいぶん前の事だ。朧な記憶を、必死で引っ張り出す。確か、
「一つ、高速で動く。二つ、術具を壊す……」
 同じ場所を高速旋回する事で、内側から、結界に負荷を掛けるのだ。しかし〝熊〟の速度は、それに達しない――そう教えられた気がする。それよりは、
「物理的にぶっ壊す」
 ――その方が確実だ、と。
 グロムは頷くと、おもむろに腕を振り上げた。鉤爪がぎらりと光る。グロムはそのまま、壁を切り裂いた。

 キリはメーターボックスの影に身をひそめた。腕をひと揺すりする。潰れた弾丸が三つ、床に跳ねた。
「あー痛かった。……無駄に献血させやがって」
 頭、首、心臓以外の怪我は、鬼族にとって致命傷にはなり得ない。だが撃たれれば痛いし、出血すればエネルギーは不足する。ノーダメージではないのだ。キリはうんざりと息を吐いた。
「まさかの、瓢箪から駒かな」
 アウストルが、ブラックホースと手を組む、という図式。ないではない、と思いはしたが。しかも鬼族化までしているとは。
 キリはコートの内側から、カード爆弾を抜いた。ボックスの下に滑り込ませて貼り付ける。
 ふっ、と呼吸を整え――バッ! とキリは飛び出した。隠れんぼをしていられる時間はない。アウストルが(魔法的にも物理的にも)逃げられない三時間の間に、片を付けてしまわなくてはいけないのだ。
 ――斜め後ろから足音が迫る。同時に前方に人影。キリは横に飛び込んだ。その行く手からも、BHの制服が迫る。
 キリの手が、武器を抜いた。

 派手な音と共に、グロムは壁材を引っ剥がす。たちまち元に戻ってしまうが、グロムは怯まない。次から次へと、壁面を叩き壊していく。こうする事で、術具の効力を使い切らせてしまうのだ。
「術具、術具……確か……」
 この手の〝迷宮〟に使われる術具は、多くが、似たような形状をしている――だったか。どんな形をしていると云われたか。
 壁を一通り破壊した後、グロムは上に目を向けた。思い切りジャンプして、剥き出しのパイプにぶら下がり、足を振ると体重を掛ける。ジョイントが外れて、多くのパイプが折れ曲がった。その拍子に、ライトの一つが壊れる。ガラスが割れる音。
 空気が僅かに波打った。
 グロムは目を瞠った。――ライトか?
「そうか、確か……鏡か玉、だった」
 グロムはイングラムを抜いた。天井に向ける。
「成程、確かに備えあれば憂いなしだな」
 ――想定していた使用目的とは全く異なるが。
「感謝するぞ、ディベロッパー」
 引鉄を引く。乾いた発射音が連続で響き渡り、並んだライトが次々と木っ端微塵になっていった。同時に空気から、何かが抜けていく。見えない水が下がっていくように。
 パキィン――!
 最後のライトが砕けた。視界が歪み、そして、クリアになる。――術が解けた。それがハッキリとわかる。グロムはイングラムをホルスターに戻した。改めて行く手を見る、
 人形≪リンガーウ≫が階段に、うずくまっていた。軽く十体以上。だがグロムは、にやりと笑った。むしろ好都合だ。――ディベロッパーの方に行かれるよりは。
「では行くぞ」
 グロムは咆哮すると、階段を駆け上がった。人形が一斉に起動する。――巨大なヒグマの前腕が、人形を一撃で叩き払った。

 ――銃声が轟く。マグナム弾で頭を吹き飛ばされた兵が、背後の機材に叩き付けられた。キリはそのまま突進し、BHの死骸を踏み台に、機材を飛び越えた。それを追いながら、BHの隊長は愕然とする。
「何なんだ、あいつはっ……!?」
 ――別の兵が、キリを捕捉した。ナイフを抜いて襲いかかろうとする。だがキリの手に現れたのは、MP5だった。いつの間に奪ったのか。ギョッとする兵に向けて、キリはにっこり笑うと舌を出した。
「悪いな。この船壊したいんだよ、俺はさ」
「……!」
 回避する。タンクの影に飛び込む。キリは斟酌しなかった。銃爪を引く。――発射音と共に、機材に銃弾が炸裂する。警告灯が点き、アラートが鳴り響く。
「この野郎っ……!」
 回り込んだ兵が、背後からキリに突き掛かる。キリは銃爪を引いたまま、無造作に振り向いた。弾丸が一直線に命中、血潮が噴き出す。だが致命傷ではなかった。腹部から足にかけてを真っ赤に染めながら、それでも兵はキリに襲いかかった。ナイフがひらめく。金属音が鳴り響いた。――弾丸の切れたMP5を、キリは盾代わりに使ったのだ。銃床が兵の手首を打つ。嫌な音がしたが、兵は猶も怯まない。客手で肘打ちを入れて来る。キリは前腕でそれを受け、流した。その間隙に。
「っ!」
 背後からの刺突を、キリは間一髪でかわした。しかし完全には避けきれない。肩口を切り裂かれた。
 ――ガッ! キリはまず前方の兵を、MP5で殴り倒した。挟撃だけは避けたかった。背後からの第二撃をかわし――きれずに更に血がしぶいたが、むしろ上出来だった。MP5を投げ付けておいてから、床を蹴る。
 ドン! 殴り倒した兵の喉を踏み潰す。兵は痙攣した後、絶命した。それを振り返りもせず離脱する。コートの左袖は、血を吸って真っ黒だ。
 ――背後からの足音が二つ。右と左、斜め後ろからだ。キリは半瞬で決断した。急ブレーキをかけるや、左後ろに向けて一気に跳躍する。
「このっ……!」
 相手も流石に、鬼族の力を得ているだけはあった。通常ならば声を出す間もなく、キリの貫手に打突されて死んでいるところを、ギリギリでかわしたのである。軍服の襟が裂けて繊維が飛ぶ。
 キリは拘らなかった。すぐさま離脱する。その直後。
「うわっ!?」
 兵の口から叫びが上がった。――キリを背後から襲おうとした兵が、激突しそうになったのだ。お互いにかろうじて回避する、が、後ろから突っ込んだ方が計器にぶち当たってしまった。火花が盛大にスパークする。隊長は舌打ちした。何をやっているのだ!
 底上げした力に、彼ら自身がまだ、ついていっていないのである。一通り体を慣らしはしたものの、実戦とは程遠い。体の組成が全て書き換えられてしまったキリと、術具を使っているBHとの違いでもあった。そして。
「ぐっ……!」
 床に身を投げ出した兵の背後に、キリが現れた。腕が首に巻き付く。一気に頸骨を折られ、兵は絶命する。その肩からMP5を奪い、まだ電気ショックの残っている兵に銃弾を叩き込む。見る間に二人片付けて、キリは再び、機材の間に消えてしまう。
「くそうっ……!」
 隊長は呪いを込めて叫ぶと、耳からインカムをむしり取っていた。必死で神経を静めようとしながら、耳を澄ます。どこだ。どこに行った――
「あんたが最後か?」
「!」
 隊長はパッと飛び退き、機材の影に身をひそめた。全神経を尖らせる。アラートがうるさい。必死で集中する。
 微かな衣擦れを、聴覚が捉えた。
(そこか)
 移動している。隊長――もう〝隊〟そのものが存在しないが――は、息を殺してそちらに向かった。MP5を肩から下ろし、構える。最早、四の五の云っていられない。
 パッ! と飛び出す。しかしそこにあったのは、部下の死骸だった。襟にワイヤが引っかけられている。やられた!
 背後から何かが吹き付けた。
 殺気――ですらなかった。冷気に近かった。隊長は咄嗟に飛び退いた。さけきれなかった。
 ドッ! ナイフが突き立つ。だが急所は外した。隊長は刺された脇腹に力を入れると、思い切り体をよじった。
「!」
 今度はキリが目を瞠る番だった。隊長は刺されたまま、キリの手からナイフをもぎ取ったのだ。引鉄に掛けられた指に、力がこもる。
 キリは横っ飛びに転がった。――キリもまた完全にはかわせなかった。足から血が噴き出す。計器の陰に転がり込む。猶も火線は追って来る。キリは計器ボックスの蓋を引き剥がした。隊長に向けて投げ付ける。子供の喧嘩か、と自分でも思ったが、命が懸かっている。気にしていられない。負ければ死ぬ。
 ――一瞬視界を塞がれた隊長は、怒声と共に蓋をはじき飛ばした。はじき飛ばして――仰天する。
 目の前に、キリがいた。
 銃身が掴まれ逸らされる。ナイフが引き抜かれる。激痛に隊長は声を上げる。MP5のショルダーベルトが切断された。放り投げられる。二秒とかかっていない。キリはそのまま、体当たりしようとした。だが隊長も、体勢を立て直していた。キリに掴みかかる。軍靴が、キリの足の傷を強く蹴った。
「っ!」
 キリが顔を歪める。まだ治りきっていなかったのだ。膝が崩れる。隊長は一気に押した。ドガアッ! キリを壁に叩き付け、首に手を掛けようとする。キリも膝頭で蹴り上げた。脇腹の傷を直撃する。隊長は唸り、手が緩んだ。キリはすかさずはね除け、間合いを切る。振り出しに戻った。
 隊長は血走った目で、キリを睨み付けた。口許の血を拭う。
「……逃がさんぞ。五十嵐キリ」
「大した執念だが」
 マグマが沸騰しているかのような隊長の声に比して、キリの声は深沈としていた。夜の湖のように。
「あんたには覚えがない。どこかで会ったか」
「直接会わなきゃ恨みを買わないとでも思ってるのか。ふざけるな若造≪ガキ≫め。――お前には何人も殺された。仲間や、後輩を」
「ふうん」キリは気のなさそうに呟いた。「そういう意識はあるんだな。あんた達でも」
「ないとでも思ったか!」隊長は激昂した。
「ブラックホースは外道だ。そんな事くらいわかってる! だがそれでも、一人≪バラ≫で戦ってる訳じゃない! ――お前を殺せる仕事だから受けたんだ、こうやって!」
 その叫びに、キリはハッとした。
「やめろ馬鹿!」
 隊長は聞かなかった。奥歯を強く噛む。
 目が真っ赤に変わった。

「……!」
 隊長がキリに肉迫する。今までの比ではなかった。キリは全力でかわした。ガチィン! と牙が噛み合う音。ゾッとする。食い殺す気だ。本当の意味で。
「この馬鹿っ……」
 キリは転がるように、隊長の攻撃をかわす。隊長は既に、患者へと変貌しつつあった。四つん這いで追って来る。まるで獣だ。キリはギアを上げる。懸命に、機材の間に飛び込む。隊長は、機材を打ち壊しながらキリを追う。
「手間が、省ける、っちゃ省けるけどっ……」
 隊長の拳が、叩き付けられる。床がひしゃげて大穴が空く。ケーブルが破損した。盛大な火花が咲く。

 ――人形を踏み潰し、グロムは制御室に突入した。制御室で待ち構えていた人形三体も、三秒で片付ける。キリを煩わせてきた人形も、グロムには木偶同然であった。体格差とパワーが、人形には有効だったのだ。偶然とは云え、グロムには僥倖だった。アウストル側にとっては、災厄な事に。
 他には誰も、制御室には居なかった。自動運転になっているのだろう。グロムは変身を解くと、ジャケットの内ポケットから、カード爆弾を取り出した。操作卓に貼り付けていく。仕掛けを終えると、制御室を飛び出す。第二波はないようだった。人形はこれで全部だろうか。だったらいいのだが。
 バラバラの木片を蹴り飛ばしながら、グロムは階段を下りた。充分距離を取ったところで、階上を見る、

「……!」
 キリはバランスを大きく崩した。隊長の爪が、コートを引っかけたのだ。振り回され、床に投げ出される。キリは咄嗟に、カード爆弾を抜いた。個別起動のボタンを押す。

 グロムは起爆ボタンを押した。

 轟音と共に、制御室は吹き飛んだ。

 ――振動は機関室にも伝わった。隊長の動きが一瞬止まる。その間隙に、キリは爆弾を、隊長の口中へと突っ込んでいた。横に転がり、離脱する。物陰へ飛び込む――
 ズズン――!
 隊長の体は内側から灼熱し、爆散した。

 ――制御室が爆炎に包まれ、煙を噴き上げるのを、アヴァランサは冷淡な目で眺めた。そして一言の感想もなく、スタスタと船内に消えた。

「……よし。次だ」
 制御室が爆発するのを見届けたグロムは、再び走り出した。今度は下へ。

「けほっ……」
 キリは軽く咳き込みながら、立ち上がった。若干、体が重く感じる。それでもキリは、やるべき事は全てやると、機関室を出た。振り返る事はしなかった。
 階段を上がる。通路を進み、角を曲がり、更に進んでまた曲がる――
 長い廊下に出た。
 そこでキリは、予想通りのものを見た。
 廊下の果てに佇立する人影。
「よう」
 キリは口端を上げた。
「初めまして、だよな。実物とは。マッド・ドクター」
 その人物も、唇を曲げた。笑いの形に。
「私は三度目だよ、D」
 アウストルだった。

 ――均整の取れた長身。苦み走った顔立ち、グレイの髪。低い声。なかなか渋い壮年だ。詐欺師でも成功しそうだな、とキリは思った。実際それに近いが。
「ブラックホースの連中はどうした? 全て片付けてしまったのかね」
 コツ、と一歩踏み出して、アウストルは尋いた。キリは佇んだまま答えた。
「どうせ計算の内だろ。感謝しろよな、報酬払わずに済む上にデータまで取れたんだから。ところでマッド・ドクター、俺も一つ尋きたいんだが」
「何かね」
「何で〝D〟なんだ? 俺の識別番号は」
 グロムがいたら、「そんな事を尋いている場合か」と目をつり上げただろう。アウストルは事もなげに笑った。
「あれか。大した意味はないよ。ドラキュラのDさ」
「なんだ」キリも軽く笑った。「まさかと思ったけど、ダンピールじゃなくてホッとしたぜ。菊地秀行から訴えられるところだった」
「何を云っているのかさっぱりわからないが」
 アウストルは微笑んだまま、ぽん、と手を叩いた。――左右のドアがひらいて、人形が現れた。全部で六体。キリは鬱陶しげに笑った。
「……まだ諦めてないのか、マッド・ドクター?」
「勿論だ」アウストルは頷いた。「こうなっては、施設も素体も、棄てざるを得ないが。【私】が無事なら、どうという事もない。それに君という素体があれば、云う事はない」
「成程ね」キリは微笑した。「俺達はあんたを追って来たが、あんたも俺達を待ってた訳だ」
「少し違う」アウストルは笑みを広げた。「正確には、君だけだ。ついでに云うと、必要なのは君の体だ。精神は要らない」
 人形が一斉に、床を蹴った。キリは銃を抜いた。だがそれは、いつものデザート・イーグルではなかった。リボルバーだった。S&W・M629。
 銃声が轟く。六連発。全て胴体にヒットした。人形はいったん吹っ飛ぶ。しかし転がった後、すぐにむくりと起き上がる。アウストルは苦笑した。人形に、ハンドガン程度の銃弾では意味がない。それも忘れたのか――そういう嘲笑だった。しかしキリの動きは止まらなかった。左手の袖口から、ライターらしきものが滑り出る。パチン、と蓋がはじけるような音。
「〝発火〟」
「――!?」
 アウストルが初めて仰天した。人形が一瞬にして爆散、炎上したのだ。

「な……っ……呪文石板≪スペルカード≫!?」
 お前が――!?
 アウストルは驚愕する。炎は激しく燃え広がり、床と天井を舐めた。金色の火花が爆ぜる。キリは手の中のそれ――石板を放った。カン、と床に跳ねて砕け散る。
「標的の体内に火薬を残しておいて、一気にドカン。〝ブラッドプラス〟で使われてた手だが、いや、アニメも馬鹿に出来ないな。サブカル万歳だ」
 アウストルには勿論、理解出来ない出典である。キリは嫌味な程ゆっくりと、リボルバーの弾丸を詰め替え始めた。
「婆さんの話を聞いてね。逆に思い付いたんだよ。マッチやライター程度なら、魔法素人の俺でも使える」
 何も標的を【完全】に、魔法【だけ】で殺す必要はない。導火線に点火するだけでいい。それならば、高度な魔法は必要ないのだ。――しかし。
「顔色が悪くなったぞ」
 アウストルの声に、余裕が戻る。キリはちらりと、アウストルを見やる。手許はゆっくりと、弾丸を入れ替えている。
「元々こんな顔色ですがね」
「気≪エーテル≫が失せている。――魔法など、使った事もないだろう。今まで。たかだか初級の呪文でも、相当のリソースを使った筈だ。それで戦う力が残っているのか?」
「戦えないように見えるか?」
 キリの薄い笑みは変わらない。だがアウストルは、それを看破する。
「【それ】も、時間を稼ぐためだろう。それともミスディレクションか? 何を隠そうとしている」
「特に何も?」
「それだ。まったく――」
 アウストルの目に、赤光が点る。キリは弾倉を、銃身に戻した。無造作に狙いを付ける、
 ギュン、と何かが渦巻いた。
 見えない何かが凝結する。キリは反射的に、人差指を外した。アウストルがにやりと笑う。
 【それ】が放たれ、キリに叩き付けられた。

 ――バアン!
 グロムは勢いよく、ドアを蹴りあけた。抵抗は全くない。全て、ディベロッパーに当たっているのか。グロムとしては楽だが、ディベロッパーが気懸かりだった。早く片を付けて、加勢に向かわなければ。そして。
 その〝片付けるべき〟ものに、グロムはやっと辿り着いた。
「……ここか」
 広い部屋。ずらりと並んだ培養槽≪カプセル≫。青白い光を放っている。壁際にはPC群。
 鬼族を造り出す工場。

「……!」
 キリは吹っ飛ばされ、床に叩き付けられた。だがそのまま倒れ込みはしなかった。後ろに一転して跳ね起きる。その反応に、アウストルは意外そうに眉を上げた。しかしすぐに納得する。
「〝盾≪シールド≫〟の術具か」
 キリは、ふっ、と息を吐いた。
「化物を相手にするのに、戦い方を調べて来ない馬鹿がいるか」
 キリの左手首に、ブレスレットが覗いている。四角い石が連なった形だった。その内の一つが、白濁している。――今の一撃で、一つ使い果たした。どこまで持つか。しかしそんな懸念は、一切見せず。
「成程ね。確かに【これ】じゃ、ひとたまりもない。どんなに腕が立っても、【念動力】でぶっ飛ばされたんじゃおしまいだ。同族の戦士も――あんたの従兄弟も」
 キリの皮肉に、アウストルは鼻で笑った。
「馬鹿だったのさ、それこそ。君が今云った通りに。彼らは――準備を怠った。そんな戦士を、戦士と呼べるかね。死をもって返上するのが道理だろう。私がそうしてやっただけだ」
 キリは反論しなかった。アウストルの云った事もまた、真実だった。死者に鞭打つ気はなくても――〝戦士〟としては失格だ。身内だから、は理由にならない。殺す準備をしていくべきだった。アウストルの能力は、わかっていた筈だったのだから。
「それで」アウストルは楽しそうに問いかける。一歩前へ出る。靴の下で、人形の残骸が砕けた。
「勝ち目はあるのか。その術具で」
「そのつもりですが?」
 キリは立ち上がり、リボルバーを構えると――ニッと笑った。
 ズシン、と足下で何かが揺れた。
「!?」
 アウストルはギョッとした。その間隙に、キリは銃爪を引いた。銃口が火を噴く。アウストルも防御する。全ては防げなかった。二発ヒットする。だがキリは舌打ちしていた。足りない、
「!」
 空圧が迫る。〝盾〟が自動で発動する。更に飛び退いて衝撃を流す――それでも完全には殺せない。盾に構えた腕が軋んだ。歯を食いしばる。石がまた一つ白濁する。
「……【また】か」
 アウストルは呆れたように、キリを眺めた。――筋肉が再生し、弾丸が押し出されて落ちた。
「君は【こういう】手が好きなのか? 自分が巻き込まれる可能性が高いというのに。まるでギャンブラーだ。そういう性質なのかね? そうも思えないが」
 キリが下層――機関室やその他諸々の場所――に仕掛けた爆弾を、起爆させた事。それを察しての、アウストルの疑問だった。キリは痛む手を振り、口端を上げた。
「まさか。【ちゃんと】あんたを殺して、おさらばする気でいるよ。無理心中≪あいうち≫なんて真っ平だ」
 次の瞬間。
「――!?」
 アウストルは目を見開いた。キリが目の前にいた。
 銀光が走った。

 ――〝鬼族工場〟に踏み入り、培養槽を覗いて――グロムは息を止めていた。そこに横たわっていたのは。
「……まさか」
 女性だった。年齢は五〇代だろうか。急いで隣の培養槽に移動する。グロムは更に、衝撃的なものを見た。そちらは――子供だったのだ。年齢は、一〇歳にも達していないだろう。青白い顔で、目を閉じている。
 どんな事情で、こんな事になったのか。病か。貧困か。何にせよ、彼らがそれに煩わされる事はもうない。彼らが考えていたのとは、全く別の意味で。
 グロムは拳を握り締める。わかっていた――と、思っていた。アウストルの非情さ、非道さは。甘かった。アウストルにとって〝他者〟とは、等しく、実験対象に過ぎない。人類も――同族である鬼族も。グロム達〝熊〟も、他の変身種も、亜種も――。
「……!」
 グロムは咆哮すると、イングラムをPC群に向けた。引鉄を引く。銃口が火を噴き、PC群は木っ端微塵に吹っ飛んだ。全弾撃ち尽くしてPC群を完全破壊すると、グロムは機関銃を放り出した。一番手前の培養槽に歩み寄り、拳を振り下ろす。
 操作パネルが、叩き潰された。
 培養槽内のランプが消える。代わりに赤いランプが点く。しばらくの間、激しく点滅していたが――やがて、消えた。
 グロムは次々と、培養槽のパネルを叩き壊していった。いつの間にか、叫びを上げていた。怒りの。
 グシャッ――! 最後の培養槽のパネルを打ち壊し、グロムは息をついた。その時。
 バクン! 蓋があく音がした。
 グロムは振り向いた。――培養槽の蓋が一つ、二つと、跳ね上がっていくところだった。沈黙したままの培養槽もある。進行の違いだろう。そしてひらいた蓋を追うように、むくり、むくりと人影が起き上がる。真っ黒なシルエット。目だけが赤く光っている。グロムを見据えている。
 不思議と恐怖は感じなかった。ためらいも。何かが強烈に、グロムの心を燃え立たせていた。それが何なのか、グロムは悟っていた。怒りだ。彼らに対して、ではない。彼らをこういう風に変えた者への、これは、憤激だ。
〝うまく使えば、力になる〟
 ディベロッパーの声が、耳に蘇る。グロムは頷いた。今になって納得する。成程ロックバイターの云った通りだ。奴は確かに、上手い教官だ――
 バシャッ。人造鬼族が床に降り立つ。培養液がぽたぽたと落ちる。グロムは僅かに、背を丸めた。鉤爪が伸びる。
「……来い!」
 怒号につられるように、人造鬼族は跳躍した。グロムへ。グロムの姿が変じた。丸太のような腕が、鋭い鉤爪が、空を切り裂いて薙いだ――

 ザシュッ……!
 キリのナイフの一閃は、容赦なく心臓を刺し貫く――筈だった。だが飛んだのは、衣服の切れ端だった。
「ちっ……!」
 流石に生粋の鬼族だった。間一髪でかわされた。キリは続け様に刃を繰り出す。フェイクの後の一突きで、頸動脈を断ち切る――
 ズシン! 足下で新たな爆音が響き、床が揺れた。アウストルのバランスが崩れ、それがかえって幸いした。結果的にナイフをかわしたアウストルは、次の一撃へ主手を繰り出した。
 ギン! 硬い音がした。
 ――キリは左目を瞠った。アウストルがナイフを掴んでいたのだ。刃を。直に。血は流れていない。手全体が、薄く発光している。
「エーテルを使えば、こういう事も可能だ。君にはその術もないだろうが」
 パキィン――!
 アウストルの手が握り締められ、刃は粉々に砕け散った。

 キリはすかさず飛び退く。アウストルはそのまま、手を振り下ろした。念動が叩き付けられる。盾が発動し、念動と激突する。それでも衝撃は殺せない。キリは猶も飛びすさりながら銃を抜く。デザート・イーグル。重い銃声が轟く。それに下層からの爆音がかぶった。揺れは次第に強さを増している。――銃弾はヒットしたものの、急所は外れた。アウストルは二・三歩踏鞴≪たたら≫を踏んだ後、すぐに顔を起こした。にやりと笑う。
「策士、策に溺れる。と、云うのかね。こういうのを」
 キリは無言。すかさず弾倉を入れ替えて構える。だがアウストルの方が速かった。
 ドオン! 無形の力が炸裂する。盾が立ち上がる。防ぐ。が、遂に。
 術具が全て、白濁した。
「っ……!」
 キリは何とか、それを流した。背後で壁が大破する音。体勢を立て直す――前に、第二撃が来た。
「――!」
 片膝がへし折れる音がした。
 床に倒れ込む。そこに続けて、第三撃。キリに防ぐ術はなかった。
 腹部に直撃した。キリは更に吹き飛ばされ、壁に叩き付けられた。
 爆音が続いている。

 ――バシャッ……!
 人造鬼族、最後の一人が、床に崩れ落ちた。グロムは大きく息を吐くと、変身を解いた。
 部屋は、ひどい有様だった。
 結果として〝工場〟には、女も子供も男もいた。その全てが目覚めた訳がなかったが、それでも全て倒すのには手間取った。戦っている最中には躊躇しなかったグロムだが――終わった途端、ドッと来た。体力以上に、精神的な負荷が大きかった。
「……くそ」
 培養槽の残骸に手を着き、息をつく。酒が欲しい、と切実に思った。
「……しっかりしろ」
 自分自身を叱咤し、端末を取り出してみる。何の連絡も入っていない。アウストルはまだ生きている。しかし逃げ回っているだけ、とは考えにくい。おそらくは――交戦中だ。ディベロッパーと。加勢に行かなければ。
 グロムは呼吸を整えると、背筋を伸ばした。部屋を出る。
 ドオンッ……!
「!」
 爆発が連鎖し、思いがけず強い力がグロムの足許を揺すった。慌ててバランスを取り戻す。――グロムは表情を険しくした。予想以上に、時間がない。しかし何故――
「……まさか」グロムは唸った。「わざとか? あの馬鹿め!」

「ご……ほっ……」
 床を滑って壁に叩き付けられ、キリは一瞬、呼吸が止まっていた。瞬間の衝撃の後、激痛が全身を襲う。膝と肋骨が悲鳴を上げていた。背骨も軋んでいる。折れてはいないようだが。咳をすると、血の雫が飛んだ。
「く……」
 それでも何とか、起き上がろうと藻掻く。――その前に、人影が立った。
「まったくわからない」
 アウストルが見下ろしていた。
「何故戦おうとする? 人類のためではないのだろう? では金のためか? 契約のため? だがそれが、敵わないとわかっている相手に突っ込んでいくだけの理由になるか? 友情――など、君には問うまでもないな。何故抗う? 私は君を、殺しはしない。何度もそう、云っているのに」
 キリは喘鳴の中、それでもくつりと喉を鳴らした。嘲笑う。
「それだけだろ」
 キリの足がアウストルの足首を、引っかけていた。絡め取られ、アウストルが転倒する。キリは片脚と手だけで跳ね起きると、アウストルに飛びかかった。首に手を掛ける。
「飼われてやるのはいいさ。剥製にされるのは願い下げでね……!」
 倒れ込むように体重をかける。アウストルの顔が、一瞬膨れた。ように見えた。あと一押し――
「……貴様――!」
 怒号と共にアウストルは、キリの脇腹に手を当てた。
 念動が炸裂した。
「……!」
 今度こそ、肋骨が破砕された。キリは再び、床に叩き付けられた。アウストルももう、そこで止めたりしなかった。逆にキリにのしかかり、首を両手で押さえ付ける。
「もういい。死ぬがいい、D! 死体でもサンプルには充分だ……!」
「っ……!」
 キリはアウストルの腕を掴んだ。引き剥がそうと力を込める――
 左目が、ぱちりとあいた。
 唇が薄く、笑いの形を刻んだ。
「……!?」
 驚愕したのはアウストルだった。
 力が一気に、吸い出されたのだ。

「何っ……貴様……!?」
「ゴチになるよ。マッド・ドクター」
 キリは既に、門≪ゲート≫を全開にしていた。アウストルのエネルギーを、真空のように吸収していく。アウストルの顔が、みるみる土気色になっていく。
 ――本当ならば。〝白の湖〟で人造鬼族に囲まれた時も、機関室でブラックホースと遣り合った時も。やろうと思えば出来たのだ。だがそうしなかったのは、全て、アウストルと直接対峙する時のためだった。アウストルはどこからどう見ているかわからない。キリの〝吸血〟方法、と云うより貪欲さを知ったら、アウストルはキリに近付くまい。アウストルを警戒させないため、あわよくばそれを忘却させてしまうために、キリは敢えて物理的に戦って来たのだった。勝算があったから、でもあったが。
 ――肋骨が再生していく。膝にまでは、まだ回らないようだった。キリはアウストルの腕を掴み直した。あと少し――

「……この野良猫が……!」

 憎悪と怨念に満ちた叫び。キリも一瞬ギョッとし、指の力が緩んでしまった。その刹那。
「っ!?」
 今度目を見開いたのはキリの方だった。ドッ! とキリに――エネルギーが流れ込んで来たのである。

「私を、この私を、食い切るだと……!? 生意気な、死に損ないが! そんなに、食いたければ、」
 アウストルの手が、キリの首を強く掴む。爪が皮膚に食い込んだ。血が盛り上がる。
「食いたいのなら、食うがいい! 食い切れるものならな――!」
「――っ!」
 キリは絶叫していた。エネルギーの奔流が、凄まじい勢いで浸入して来る。圧し潰されそうだった。息が出来ない――
「どうした!? 食ってみろ、これが純血の鬼族のエネルギーだ! お前達、出来損ないと一緒にするな!」
「……!」
 想像を絶するエネルギーをそそぎ込まれて、キリは意識を失いかけていた。身体中が軋んでいる。先刻の比ではなかった。【消化】しきれない。破壊される、内側から……!
「剥製にされたくないか。その望みを叶えてやろう! 木っ端微塵になって消えるがいい、跡形も残さず……!」
 血も凍るような悪罵を浴びながら、キリは必死で手を上げた。アウストルに――ではなく、自分の顔へ。右目へ。右目を覆っていたバンテージへ。
 殆ど漂白された意識の中、キリは、バンテージを引き剥がした。

 アウストルもギョッとした。キリの右目――そこは空っぽの筈だった。だが今、そこに。
 金色の瞳があった。――いや。
 義眼。

 アウストルは咄嗟に引こうとした。その【仕掛け】が何なのか、見抜いた訳ではなかった。ただ嫌な予感が、脊髄を走ったのだ。キリの首から手を離し、飛び退こうとする。が。
 その腕を今度こそ、キリが掴んだ。全力で。指が、服と皮膚を突き破って食い込んだ。
「放せ……!」
 アウストルの口が裂け、牙が伸びた。キリの喉を食い破ろうとしたのだ。キリは顔を逸らさず、アウストルを【見】た。両目で。金色の義眼の表面に、文字が浮かび上がった。
 〝Ⅸ〟。

「……!」
 アウストルは今度こそ蒼白になった。数字の9――その意味を彼は、知っていた。自分では使えないレベルの呪文≪スペル≫。しかしそこで気付く。ならばキリにも、使える筈がないのだ。アウストルは下げた口端を、再度上げた。瀕死のキリを嘲笑う。
「どうした!? 空いた眼に呪文水晶を仕込んだか、そこまでは誉めてやろう! だが貴様に、【その】呪文は使えまいが! 【それ】を抱えてあそこまで戦った事は誉めてやるが、所詮下等生物の浅知恵……!」
 ブツリと。
 アウストルは口を噤んだ。断ち切られるように。気付いたのだ。背後に――
 いる。鬼が、
「――!」
 振り向こうとした。間に合わなかった。

「〝死の九番〟」

 低い女声が、死の呪文≪デス・スペル≫をはなった。

「お……!」
 〝死〟が一斉に、アウストルの細胞に食い付いた。

「ぐ……!」
 キリもまた、激痛に襲われていた。右目の義眼が黒く転じ、両腕を通じてアウストルに流れ込んでいったのだ。キリの力をも削り取りながら。全身が激しく痙攣する。それでもキリは、アウストルの腕を掴んでいた。殆ど無意識だった。本能といってもよかった。
 やがて〝魔法〟が全て、自分からアウストルに流れ出ると――キリは遂に、力尽きた。糸が切れたように、腕と頭を床に投げ出す。粗い息を繰り返すので精一杯だ。
「お、お、お……」
 アウストルもまた、全身がガクガクと揺れていた。全身が〝死〟で、黒く染まっていく。それが自分でもわかる。強力なデス・スペルだ。もう逃げられない。
「お、まえ、」
 全てこのためだったのか。これが【彼ら】の、最終手段か。早々に機関室を爆破したのも――【彼女】の到着を、覆い隠すためだったのか。ずっと計っていたのだ。タイミングを。
 ひたり、と、足音が近付いて来る。氷のような鬼気。軽い布靴の足音。見なくてもわかる。アウストルの祖母――アヴァランサ。
「っ……!」
 アウストルは振り向く代わりに、前へと手を伸ばした。キリの首を締め上げる。キリは抵抗しなかった。その力がなかった。アウストルは残りの力を振り絞り、キリの息の根を止めようとした。
「お前も……! 道連れだ……!」
 ――ドン!
 背中に強い衝撃を受け、アウストルは目を見開いた。手もひらく。キリの喉から、ひゅう、と息が漏れた。
 アウストルは振り向いた。――彼の祖母が、彼の背中から、短剣を引き抜くところだった。鬼族に代々伝わる妖剣。
「アタシも安く見られたもんだね。背後にいるのに無警戒とは」
「お……ば、」
「それともこれ以上、何もしないとでも思ったのかい。アタシがあんたの祖母だからか?」
「おばあ……、さ、」
「甘いよ。そのツケは自分で払いな」
 彼女――アヴァランサの顔も蒼白だった。キリと負担を分担したとは云え――それでも、デス・スペルの代償は巨大だったのだ。しかしそんな状態でもなお、彼女は彼女だった。
「【そいつ】は今、アタシの雇用人でね。勝手に殺されちゃ困るんだよ。さっさとどきな」
 アウストルの肩を掴み、軽く放り出す。アウストルは呆気なく、床に転がった。口をパクパクさせながら、アヴァランサを見上げる。アヴァランサはその前に立つと、冷ややかに孫を見下ろした。短剣を片手にしたまま。
「遺言があるなら聞いてやってもいい。云ってみろ」
「……お……」
 アウストルは結局――何も云わなかった。云えなかった。
 がくりと頭が、横を向いた。
 目から光が消える。
 息が止まった。

 終わった。

 アヴァランサは無言で、短剣を振り上げた。アウストルの心臓に突き刺す。鋭い刃が、何かを串刺しにして抉り出した。赤い宝石――のようにも見えた。
 アヴァランサの手が、それを握り潰した。
 それは粉々になって、消え失せた。
 ……キリはそれを、横たわったまま、見ていた。無言で。
 何も云わなかった。云える筈がない。何もなかった――云える事など。
 義眼――呪文水晶の残骸が溶け、目の端を伝って流れ落ちた。
 右目は再び、空っぽと化した。

「……アバタール」
 アヴァランサが振り向いた。その瞬間彼女は、一気に歳を取ったように見えた。キリは痛ましげに目を細めたが、一瞬の事だった。自分の体の痛みが上回ったのだ。
「い……ってー……」
「大丈夫かいアバタール。生きてるね」
「そっちこそ。で、【そいつ】は」
 キリは何とか、倒れたアウストルを指差した。
「死んだのか。死んだんだろうな? 完全に」
「ああ」アヴァランサは頷いた。「〝核〟を……あんたらで云うところの心臓を、取り出して壊したからね。見てたろ。死んだよ。完全に」
「……そ、か」
「しかしまあ、念には念だ」
 アヴァランサは懐から、石板を取り出した。パキリと折る。
「〝聖火≪セントエルモ≫〟」
 ボッ――!
 アウストル――だったもの――は見る間に、白い炎に包まれ、粉々に燃え尽きていった。

 ――懐で端末が振動した。グロムは足を止め、急いで端末を見た。アヴァランサからのメッセージが入っていた。ただの一言。
 〝完了〟とあった。

「……さ、行くよ、アバタール。立てるかい」
 アヴァランサがキリの腕を取る。キリは苦笑した。
「何云ってんだ婆さん。自分だって、立ってるのがやっとだろ」
「馬鹿にすんじゃないよ。わかった、手は貸さないよ。とっとと立ちな」
「……え、そういう方向?」
「他にどんな方向があるのさ。――あんたが景気よく爆弾仕掛けたお陰じゃないか。これじゃこっちだって命が危ない。何考えてんだいまったく」
「……派手にしとかないと、マッド・ドクターの注意が逸らせないかな、と」
「ま、そいつは正しいがね。――無駄口叩いてる間に、ちょっとは回復したろう。さっさと立てって云うんだよ、手間が掛かるね」
 非情な台詞を吐きつつも、アヴァランサはキリの腕を取って引っ張り上げた。キリは呻きながら、壁のパイプを掴んで立ち上がった。左足はまだ使えない。立っただけで息切れしているキリに、アヴァランサは肩を貸した。
「肩に手を置きな。杖代わりにはなるだろ」
「……杖が要りそうな婆さんを杖にするって、俺物凄い人非人になった気分」
「それ以上云ったら張っ倒すよ」
 鬼族の長老と元傭兵は、よろめきながらその場を後にした。

「……あんた一体、どれだけ爆弾仕掛けたんだい! 脱出の事は考えてなかったとか、云うんじゃないだろうね!」
「そんな訳あるか! ……ただ、マッド・ドクターがどこに隠れてるかわからなかったし、それなりにあちこちには仕掛けたよ。あっでも、構造には気を使ったぜ? だからまだ沈んでないだろ」
「どうだかね。もうだいぶ、沈んでるんじゃないかい」
 アヴァランサとキリは、必死で階段を登っていた。その間も爆音は続いている。床も傾き始めていた。ところどころから、火花が落ちて来る。爆弾そのものによるもの――というより、誘爆、延焼の類だ。しかし、垂れ下がったケーブルには注意が必要だった。吸血鬼でも、感電死しかねない。そんな中を二人は、一歩一歩歩いていく。気ばかり焦ってなかなか進まない。
「せめて足だけでも治らないのかい、アバタール」
「駄目みたいだ」一度手摺に手を着き、キリは息をついた。「マッド・ドクターから【押し込まれた】分は、全然……〝食事〟になってない。ダメージ受けただけだな。かえって削られた」
 それだけではないだろう、とアヴァランサは思う。デス・スペル。それを内包した術具を、体内に格納して運び、戦い、更には体の中を通したのだ。戦技については超一級でも、魔法に関してはずぶの素人のキリである。アヴァランサが計算した以上のダメージを受けていても、おかしくなかった。むしろその可能性の方が高いかも知れない――
 ズズン! 爆発が起きた。近かった。足許が傾いだ。
「アバタール!」
 間に合わなかった。キリは階段を滑り落ちていた。踊り場の手摺に激突する。パイプの結束具が外れ、キリの上に雪崩れ落ちた。

「アバタール! 大丈夫かい!」
 アヴァランサは真っ青になって、階段を下りた。いつもからは程遠いスピードに、自分を殴りたくなる。何とか踊り場に着き、パイプの山をどかし――アヴァランサは、うっと息を飲み込んだ。
 パイプがキリの足を貫き、床に突き刺さっていた。
「……あ……れ……まだ生きてるか。流石だな俺、しぶとい。……って」
 ――目をあけ、自分の状態を見やって、キリはバタリと突っ伏してしまった。
「うっわー……床に磔……」
「無駄口叩いてないで、歯ァ食いしばってな! 今すぐ抜いてやるから」
 アヴァランサは叱咤すると、パイプに手を掛けた。が。
「――」
 彼女は愕然とした。抜けない。力が入らないのだ。いつもなら難なく扱える筈の質量が。アヴァランサは呆然とした後――改めてパイプを握ろうとした。それを、蝋人形のような白い手が押さえた。キリ当人だった。
「……いい。無理すんな婆さん」
「馬鹿云うんじゃないよ!」
「力使い果たしてる婆さんに、肉体労働させる程、バイオレンスじゃないつもりだぜ俺も。それより……」
 そこで一度咳をして、キリは微笑した。
「クマオを寄越してくれ。その方が多分確実だ」
「……グロムを?」
「とにかく婆さんは脱出しろ。三人とも死んだんじゃ話にならない。いいか、戻って来ようなんて思うなよ。今の婆さんじゃ、この状況はどうにも出来ない」
「云ってくれるじゃないか」
 そう云いつつ、アヴァランサは立ち上がっていた。上階へ向かいつつ、キリを振り向いて指を突き付ける。
「勝手に死んだら承知しないよ。あんたにゃ借りがある。貸し逃げは許さないからね。もし死んだら、地獄まで追っかけてって払うからな。覚悟しな」
 目茶苦茶な事を云って、アヴァランサは階段を上がっていった。少し回復したのか、足取りにやや力が戻っている。それを見送り、キリは苦笑した。
「……何で貸した方が、地獄まで追っかけられなきゃいけないんだよ……」
 そしてキリは、息を吐いて目を閉じた。

「アヴァランサ殿!」
 ――端末に入った通信に、グロムはまずホッとし――次に目を見開いた。
「ディベロッパーが!?」
 アヴァランサが位置を告げる。グロムは走り出しながら応じた。
「わかった。すぐに向かう。アヴァランサ殿は先に脱出してくれ。もし俺が戻らなかった時は、――わかってる、万が一だ。必ず連れて脱出するが、万が一戻らなかったらその時は、〝熊〟を頼む。管理下に置くのでも構わない、それが〝熊〟のためになるなら。アヴァランサ殿にしか頼めない。きっと頼んだぞ、以上!」
 グロムは通話を切ると、速度のギアを上げた。

 アヴァランサはよろよろと、甲板に這い出した。
 結界の霧はもうだいぶ、薄れている。舷側に歩み寄り――思った以上に上がっている喫水線に驚く。この状態で、リジットのような軽いボートが、近付けるだろうか。アヴァランサは、暗い水面に目を凝らした。

「ディベロッパー! ディベロッパー、生きているなら返事をしろ!」
 グロムは懸命に声を張る。叫ばずにいられなかった。反応が欲しかった。何でもいい、ほんの少しでも、何か返してくれれば――。
「ディベロッパー! 何とか云え、いつもの軽口はどうした!」
 ……何の反応もない。グロムは必死で精神を静め、嗅覚を働かせた。――アヴァランサの残り香を嗅ぎ当てる。
「この階段か? ――ディベロッパー! おい――」
 下を覗き込み――グロムはギョッとした。踊り場に広がった濃灰のコートと、鮮血が見えた。

 グロムはもう物も云わず、階段を駆け下りた。――途中で一度、爆発が起こり、床が更に傾いだ。おまけに下方から、水音も聞こえ始めている。グロムは必死で階段を下りると、とうとうキリの元に辿り着いた。
「ディベロッパー!」
 ――キリは反応しなかった。目を閉じてピクリとも動かない。顔からは全ての色素が抜けて、紙のように白かった。体は冷え切っている。生きているのかどうかさえ、判然としない。グロムはパイプに手を掛けた。
「痛むだろうが、後で文句を云うな……よっ!」
 一気にパイプを引き抜く。途端にキリの口から、苦鳴が迸った。

「ディベロッパー!」
 体を跳ね上げたキリに、グロムはパイプを放り捨てて片膝を着いた。コートの肩を掴む。
「おい! 俺だ、グロムだ! わかるか!? ディベロッパー、おい!」
「い……っつー……」
 キリは再び伏せていた。力なく唸ると、首を振り――
 ぱちりと目をあけた。
 赤い左目がグロムを見た。

「……クマオ?」

 疲れ果てて掠れてはいたが、紛れもなく意思持つ者の声だった。

 グロムは全身で、安堵の息を吐いた。生きていた――生きていた。
「……ん?」
 だがそこで、不条理な事に気付く。何故疑問符なのだ。自分を呼べ、と云ったのは、彼自身だろうに。その疑念に、キリ自らが先に答えていた。
「……馬鹿だな、お前。本当に来たのか」
 ――グロムがぶち切れるのに、それは充分な台詞だった。
「来いと云ったのはお前だろうがーっ!」
 そしてグロムは有無を云わさず、キリを肩に担ぎ上げた。上へ向かって走り出す。

「い、っててっ……! っば、クマオ! まだ、肋骨、がっ……つっ……!」
「うるさい! じゃあ姫抱きにしてやろうか!?」
「断る!」
「それなら黙っていろ、贅沢を云うな! 落ち着いたら、嫌という程飯を食わせてやる。だからそれまでは我慢しっ……!?」
 大きな突き上げが来た。丁度階段を上がりきったところだったグロムは、バランスを崩してしまった。廊下に倒れ込む。
「!」
 反射的にキリを庇っていたが、庇いきれなかった。背中を強くぶつけてしまい、キリは顔を歪めて呻いた。グロムは急いで身を起こす。
「すまん! 大丈夫か」
 キリは首を振ると――手を伸ばした。とん、とグロムの肩を押しやる。
「ディベロッパー?」
「……いい。行け」
 低い声。単調な。グロムは目を剥いた。
「何を云っている! あと少しだ! ここまで来て――」
 キリは黙って、行く手――グロムの背後を指差した。振り返り、グロムも愕然とする。階段がひしゃげていた。キリは苦笑した。
「お前一人なら何て事ないだろ。熊だもんな。云ったろ、他の奴の事は考えるなって。早く行け。そろそろ水も上がって来る」
 ……グロムは真っ赤な顔で、キリを睨み付けた。何故だか無性に――腹が立っていた。一度は納得した筈の、この男の云い種に。
「……なら何で、俺を呼べなんて云った」
「決まってるだろ。方便だよ」キリは目を閉じて告げた。「ああでも云わないと、婆さん、逃げてくれそうになかったからな。お前もお前だ。本当に来る事……なかったのに……」
 声が途切れかける。眠りに就く寸前のように。だがグロムは、それに気を向けられなかった。――頭に来た。完全に。
「……この、嘘つきめ」
 極低音で唸り――次には一転して、大音声で怒鳴っていた。
「ふざけるな! お前は俺を、何だと思っている!」
 怒鳴り付けるや否や。グロムはまずキリから、コートを引っ剥がした。次にキリを背負い、更にコートを上から羽織る。袖と裾を体の前で結び、簡易の背負い紐にしてしまう。ひしゃげた階段を回避し、別の階段へと走る。……キリがぼそりと呟いた。
「本当に、馬鹿だな、熊ってのは」
「やかましい! 〝熊〟をナメるな、お前一人ぐらいどうって事はないんだ! ――こんなところでお前を死なせてみろ、ロックバイターが化けて出る! 地獄で奴に殴られたくないからな!」
 キリの手が一瞬、強く握り締められた。しかし次に聞こえた台詞は、微かな笑いを含んでいた。
「お前さんも、地獄に行くと、思ってる……んだな。自分でも」
「そんなものだろう」グロムは苦々しく答えた。「戦士なんてものは。みんなそうだ。戦って殺して、それで天国に行けるなんて思う方がどうかしてる」
「そうだな」キリは薄く笑った。「同意するよ。珍しいな、お前さんと、意見が合う……なんて……」
「ディベロッパー?」
 それきり、キリの声が聞こえなくなる。グロムは焦りそうになる自分を、必死で制御した。慌ててはならない。必ず失敗する。
「ディベロッパー! あと少しだ! 陸≪おか≫に戻ったら旨いコーヒーを奢ってやるから、だからもう少し耐えろ!」
 ――キリからの返答はない。
「ディベロッパー!」

 揺動の中、グロムは走りに走って、やっと甲板に飛び出した。一目で周りの様子を見て取り、息を飲む。
「マズい……」
 アヴァランサが出て来た時より更に、喫水線は上がっている。加えて波も荒い。リジットはもう近付けまい。アヴァランサはどうしただろう。うまく避難出来たろうか。彼女に、魔法で何とかして貰うしかないのか――
 強烈なサーチライトが、グロムを照らした。
「!」
 グロムは咄嗟に、キリを庇うように向き直っていた。サーチライトの先には――ヘリがホバリングしていた。それも軍用の。万事休すか――グロムが歯噛みした時。
『クマ殿!』
 スピーカを通じて投げられた声に、グロムは目を瞠った。
「モルダニア軍の少尉……!?」

 縄梯子が下りて来る。グロムはキリを改めて抱え直し、コートをスリング代わりに結び直していた。片手でキリを抱きかかえ、縄梯子に掴まる。
「いいぞ! 引き上げてくれ!」
 ――靴底が甲板を離れる。ヘリが上昇を開始する。同時にウィンチも巻き上げられ、ヘリが少しずつ大きくなって来る。グロムは足の下を見なかった。今は無事に、ヘリに乗り込む方が先だ。
「あと少しです!」
 顔を出して叫んでいるのは、あの時の上等兵だ。グロムは叫び返した。
「下がっていろ! 俺達に触れたら駄目だ!」
「承知しております!」
 完全に、梯子が巻き上げられる。グロムは慎重に、カーゴルームに降り立った。一瞬よろめきそうになるのを、懸命にこらえる。――背後でドアがスライドした。バン! と閉まり、ロックがかかる。風が消える。と同時に。
 とうとうグロムも限界に達し、キリともども床に倒れ込んでしまった。

「クマ殿!」
「近付くな! ――俺は大丈夫だ、それよりディベロッパーに水を……!」
 その時目の前に、水のパックが突き出された。グロムは目を丸くした。
「アヴァランサ殿!」
「アタシもこいつらに拾って貰ってね」
 アヴァランサはパックの吸い口をねじ切ると、キリの傍らに膝を着いた。
「フリードは先に岸に戻ってる。心配要らない。――で、アバタールは」
「わからん。さっきから返事がないんだ。死んではいないと――思うが――」
「死んじゃいないね。死んじゃいないが――アバタール! アバタール、起きな!」
 キリはやはり反応しない。アヴァランサは舌打ちした。拳を握る。その拳が淡く光るのが、グロムにだけは見えた。が、不穏な事には違いない。グロムと兵は慌てた。
「アヴァランサ殿!」
「殺しゃしないよ、安心しな。まあ多少荒っぽいがね」
「待てアヴァランサ殿っ……!」
 アヴァランサの〝荒っぽい〟は、ほぼ〝殺す〟と同義だった気がする。グロムは急いで止めようとしたが、アヴァランサはその前に、キリの胸に拳を叩き付けていた。
「目を覚ましな! アバタール!」

 小さな咳が、キリの唇を割った。

「け、ほっ……ごほっ。……ん、あれ、婆さん? クマオ? 何でここに……て云うか、ここどこ、」
 喉が掠れた。続け様に咳が出て、声が出なくなってしまう。アヴァランサが水を差し出した。キリはそれに口を付けながら、目を忙しく動かした。その目が上等兵と――カーゴルームに移って来た、ザパダを捉えた。それだけでキリの目から、疑問が氷解した。水を飲み切ると、改めてドサリと、身を横たえる。
「……借りが出来たな、少尉」
 ザパダは首を振った。
「いえ。自分達は、何も」
「謙遜しなくていい。助かったよ。それにしてもこんなヘリ、どうやって」
「蟻地獄≪レウフリカ≫司令部の少佐を、覚えておいでですか」
「ああ。あの司令部の中じゃ、まともな人だった。才走ったところはなかったけど」
 惜しい事したよ――そう呟くキリに、ザパダは頷いた。続ける。
「彼の御父君も、軍人だったんです。現役で、装備部にいます。将軍に――」
「将軍?」
「我々の後援者です、個人名は御勘弁下さい。――将軍に交渉して貰い、ヘリ≪これ≫を。一台、都合を付けて貰いました。御父君も――積極的に。協力してくれて」
「そうか」
 ふうっ、とキリは息を吐いた。
「軍隊としちゃどうかと思うが、正直ありがたかったよ。後で、礼を、云っといてくれ……」
 その時パイロットが何か告げた。同時にヘリは、高度と速度を上げた。そして、
 窓の外がカッと、明るくなった。次いで爆音。
 グロムとアヴァランサ、ザパダは、窓の外へ目をやった。――遠く、輸送船が爆発炎上し、真っ二つに折れて沈んでいくところだった。
 キリがそれを見る事は出来なかった。ただその爆音を耳にしながら、キリは、眠りに落ちた。
〈続〉


■グロムの昔エピ。最初父親で書いちゃって、しまったこの人の父親って〝蛇〟だったよ。と青くなったのは内緒です。(云ってる)
■「船の推進力だけを奪う」のは机上の空論だそうですが、エンタメなので力業で押し通しました。無茶が過ぎるとは思いました……。
■まあ何て云うかとにかく、アヴァランサにケリを付けさせたかったんです……。祖母―孫の関係にした時点で決定でした。キリは「何が何でも自分の手で」という意識に乏しい人なので。あとヘリでのピックアップ。ep4では飛び降りたので今度は上にしようと(笑)。この二つが譲れなかったんで、どう転がすか無い知恵を絞りました;
■次がエピローグ(最終話)になります。

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